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 参院在外同胞引揚特別委員会での証人喚問は4月12日から、予定を延ばして3日間行われた。証言したのは池田とナホトカ「人民裁判」関係者1人を含め計15人。13日付毎日1面コラム「記者席から」は、「話題の事件だけに、傍聴人も多数押し掛け、委員会はあふれるほどの盛況。事件が国際的なものであり、外蒙に起こった事件であるだけに、政治的にも微妙なものがあり、そのゆえか、各委員の面上にも一種の緊張感がみなぎっている」と書いている。

参院での喚問に向かう「吉村隊長」の一挙手一投足を朝日は追った

 当時の参院議員は1947年4月の第1回選挙の当選者で構成され、在外同胞引揚特別委には戦前、人気映画スターだった浅岡信夫や、ジャーナリストで戦中の横浜事件に連座した細川嘉六らがいた。特別委での池田と元隊員の証言はことごとく対立した。新聞の見出しを見ても分かる。「食違う両証言」(4月13日付朝日)、「“終戦”の見解で違う作業」(同日付毎日)、「証言に食い違い」(14日付毎日)、「『独断』と『命令』で対立」(15日付朝日)、「最後まで意見対立 結論持ち越し」(同日付毎日)、「『命令』と『私刑』対立」(同日付読売)……。その中で明らかになったのは次のような点だった。

「1人も死んでいない」!?

1.「暁に祈る」は公式には「屋外留置」と呼ばれ、はじめはモンゴル人捕虜収容所長が処罰として行っていたのを池田もやるようになった

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2.「暁に祈らされた」受刑者の人員で、委員長は原田(春男・元通訳)証言に基づいて「受刑者は150名か」と念を押せば、まず池田証人「40名」を再び主張。そのほかの証人は「不明」と答える者2名、100名以上という者2名、150名が5名、それ以上1名の色分けとなった(15日付読売)

3.ただ、「暁に祈る」は懲罰のためで、数時間で解放されることもあった。「連日、池田氏と対抗の立場にあった他の証人も、結局『暁に祈る』では1人も死んでいないことを認めた」(15日付毎日)

4.「この処刑(「暁に祈る」)と関係があるかどうかははっきりしないが、暴行によって3~5名の死者を出した」(15日付読売)

捕虜収容所の内部(鈴木雅雄「春なき二年間」より)

 原田春男は、委員が最も信頼できるとした証人だった。死者が出なかったとしても、また処罰だったとしても「暁に祈る」が人道上許されない行為だったことは間違いない。最大の問題はそれがモンゴル側の命令だったのか、池田が命令を付加したのか、独断だったのか、という点。15日付朝日は記事でこう書いている。

 池田(重善・元隊長)、原田、酒井(一郎・元医官)3証人の対決が行われたが、「命令だ」「独断だ」で鋭く主張が対立し、息詰まるような場面を展開。さすがの池田証人もたびたび水を飲んでいた。この対立証言に手を焼いた形の委員会は、証言対立のまま吉村隊関係の全証人を証人台に並べ「処罰は命令なりや否や」について順次証言を求めたが、池田証人のみ「命令だ」と明言。長谷川(貞雄=池田の前任隊長の元陸軍大尉)証人以下全証人は一斉に「一部を除き、全て吉村の独断だ」と証言した。

 結局、特別委は結論を持ち越し、後日見解を公表することになった。