しかし、議事運営を見れば、各政党によって姿勢が違うのはありあり。「画報現代史・戦後の世界と日本第6集」の写真説明には「民(主)自(由)党は池田を弁護した」とある。
当時の与党は吉田茂首相率いる民自党。池田の行為はソ連の抑留と強制労働に重い責任があると強調したかったということ。「池田告発に助力してきた共産党は、反証を挙げて池田と、池田の行為の根因である『帝国軍隊の残滓(ざんし=残りかす)』を指摘し、併せて池田と民自党のなれあいを非難した」(同書)。
実際にも、特別委の中間報告のまとめは難航。共産党所属の細川嘉六委員ら2人は「報告は池田の責任を故意に軽くし、その責任を外蒙側に転嫁し、引き揚げを阻害する」と反対意見を述べている(1949年5月23日付朝日)。東西冷戦を背景にした熾烈な政治的対立が反映していたということか。
「なぜあのような虚構といってもいいようなセンセーショナルな記事が生まれたのか」
「週刊文春」1975年8月7日号に載った「五島列島から無実を叫ぶ“暁に祈る”吉村隊長」という記事は、「当時の世相を知る某氏」の話として「ソ連にたいする抑留者の不満がウッ積していて、新聞がその反ソ感情を利用してセンセーショナルにあつかったまでのことでしょう」と書いている。
池田の死から2年半後の1991年3月11日から、朝日の夕刊「空白への挑戦」欄に「凍土の悲劇 モンゴル吉村隊事件」という記事が52回にわたって連載された。佐藤悠・編集委員が生き残りの吉村隊員らに取材した労作。大筋で「暁に祈る」に近い事実はあったとの立場から「池田氏の著書の虚偽を私は連載で厳しく指摘しました」(単行本「あとがき」)。
気になったのは「四十数年前の各種抑留記ないし朝日新聞などが、誇張された事件イメージを世に伝えたのも『勇み足』でした」と書いただけで、朝日のキャンペーン報道を詳しく検証しなかったこと。
「文藝春秋」2005年11月号の「心の貌 昭和事件史発掘7 『暁に祈る』事件 正義の名の下に」で、ノンフィクション作家の柳田邦男氏は、第一報から42年後の検証記事に「なぜあのような虚構といってもいいようなセンセーショナルな記事が生まれたのか。なぜ吉村隊長を極悪人扱いする記事を連打して、世論をミスリードしていったのか。田代(喜久雄)記者が“飛ばし記事”を書いた経緯と、その後も続報を勝ち誇ったように掲載し続けた朝日の編集姿勢こそ検証するべきです」と批判した。
確かに、朝日のキャンペーンがなければ、国会も検察もあれほど積極的に動いたかどうか――。実は、第一報を書いた田代喜久雄記者(故人)はその後、朝日の専務からテレビ朝日の社長まで上り詰めた。当時の「週刊朝日」や雑誌にいきさつを書いているが、記事が問題視されるようになってからは「過去のこと」としてまともなコメントをしなかった。「凍土の悲劇」も佐藤編集委員個人の署名入り記事であって、朝日としての公式見解ではない。