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“吉村隊長”を逮捕 不法監禁、致死の疑い 

 

 外蒙ウランバートル捕虜収容所における殺人、暴行、横領の疑いでさる3月23日、元同隊員・笠原金三郎、吉川慶作両名から告発された池田重善・元吉村隊長(34)は14日朝9時50分、東京地検に任意出頭し、福島特捜部長の取り調べを受けた。福島部長から「参議院で話したように自由に述べてほしい」と言われ、例の人懐っこい笑顔で供述を行ったが、午後2時ごろ、逮捕状が出されると、ハッとした面持ちでしばらく逮捕状と福島部長の顔をジッと見比べ、「きょうですか」とポツンと一言。やがて「長崎を出るとき、覚悟していました……。承知致しました」と述べ、答弁を続けた。

 

 この日の調べは、吉村隊事件のあらすじを尋ねる程度だったが、同人はほとんどよどみない調子で潔白を主張。途中弁護人が指示した「黙秘権」の行使を全然無視した答弁ぶりだった。

ついに逮捕(朝日)

 こう報じた15日付朝日2面トップ記事には、逮捕状執行前に記者団と会見した際の談話が付いている。

「“暁に祈る”は言われているほど残虐なものではなく、これで死んだという者はいない」

「いろいろ言われているが、当時私としてはできるだけ日本人側に良いように努力もし、また適当だと考えてやった。しかしいま日本に帰って、人間として反省してみると、私の指導力の不足やその他に欠陥があったと思う。遺家族に対しても、いちいちお訪ねして当時の事情や私の気持ちも伝えたいと思うが、いまはどうにもならない」

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逮捕から1年後、下った判決は…

 8月4日、東京地検は不法監禁と遺棄致死の罪で起訴した。起訴事実は、「収容所長から委任された処罰権を逸脱して」隊員9人を「不法に営倉(懲罰房)に入れたり、いわゆる“暁に祈る”処分に付したことが不法逮捕監禁罪」、隊員2人に「2日、または3日にわたって絶食を命じ、栄養失調に必要な保護を加えず死に至らせたことが遺棄致死罪」に問われた。

 福島特捜部長は談話で「池田は『公判で全てが明らかになる』と言っていた」と述べた。この時点で既に殺人罪には問われていないことが注目される。

 東京地裁での審理は、翌1950年1月に福岡、熊本など九州での出張尋問を実施。1月9日付西日本新聞は「(裁判の先行きに)明るい見通しをつけている」との池田の談話を載せている。

 同年5月12日、検察側は「池田被告の法律的、道徳的責任を断定。懲役10年を求刑した」(13日付朝日)。同紙によれば、論告は「この事件が新聞などに“暁に祈る”と掲載され悲惨な印象を与えたが、これらの全部が被告の責任とはいえぬことは認める」と明示。

 毎日の記事によると、公訴事実を検討した結果、「比類なき極寒深夜“暁に祈る”残虐な処罰方法をとったことは明らかな事実」と断じた。

 弁護側は6月8日からの公判で「“残虐な事実”など立証されず、池田被告に刑事責任を追及する根拠はない」と反論。逮捕からちょうど1年後の1950年7月14日。判決が下った。「懲役5年」――。

 起訴事実の逮捕監禁について6人を認め、遺棄致死は1人について認定。裁判権についても「問題なし」とした。

 判決理由は「吉村隊長は作業第一主義をとってモンゴル側に信頼されたが、隊員はこのため過労と栄養失調となり、病弱者も作業を強いられて死亡者30数名を出した。また、池田は処罰権の委任を買って出て必要以上の処罰を加えた。敗戦後の苦しい生活を送っていた同胞に対し、権力をかざした処罰は確かに残虐なものと認められる」(15日付朝日)だった。

上告棄却で懲役3年が確定した(朝日)

 池田は控訴したが、1962年4月26日の控訴審判決も、逮捕監禁の1人を証拠不十分としたものの、懲役3年の実刑判決。1958年5月24日、最高裁は裁判権の問題にのみ触れて、事実関係は控訴審判決を支持。上告を棄却して懲役3年の刑が確定した。