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入門時の高見は「怖い先生だったらどうしよう」

 高見との出会いは地元の将棋大会だった。

 私が審判を務めていた東京都町田市の将棋大会に、横浜に住む高見が参加していた。序盤はつたないが終盤が強く、才能を感じさせる勝ち方をしていて、気になって何度か将棋を指した。

 2004年初夏、両親からプロ棋士を目指したいと相談を受けた。私は師匠になれる器量も棋力もないので、弟子をとるのは石田師匠にお願いしていた。7月頃、高見を連れて柏へ。高見は「怖い先生だったらどうしよう」とすごく緊張していたが、師匠は「勝又君の紹介なら大丈夫」と笑ってそれで終わり。高見は拍子抜けした顔になっていた。

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 8月上旬、岡山県倉敷市で倉敷王将戦全国大会が開かれた。前年度は佐々木が低学年で、菅井が高学年で優勝している。ちなみに、藤井聡太二冠も2011年に低学年の部で優勝している。

 高学年の部、菅井が4回戦で佐々木に勝って小学生名人戦の借りを返したが、その菅井を破ったのが高見だった。決勝では青森の中川慧梧さん(後にアマ王将3回・アマ名人1回)に負けて高見は準優勝だった。当時の印象を参加者に聞くと、菅井は負けん気が強くて迫力があり、高見は人懐っこくてよくしゃべっていて、佐々木ははしゃいでいたそうだ。今とまったく変わらない。

 8月下旬の奨励会試験、三枚堂も佐々木も菅井も斎藤も伊藤も合格したが、高見だけは2次試験で奨励会員に3連敗して不合格になった。その半年後、当時研修会幹事で私が懇意にしている植山悦行七段から電話がかかってきた。

「高見君が昇級して奨励会編入が決まったよ。昇級の1局、負けたらどうしようと悲壮感にあふれていてね。必死だったよ」

 思えば高見が同世代を追いかけるのはこの頃からだったのだろう。ともあれ、これで仲間たちと一緒に奨励会で研鑽することになった。

奨励会を抜けるまで

 佐々木も高見も順調に昇級した。特に佐々木の成長は驚異的で、13歳8か月で三段に昇段した。三段リーグを3期以内に昇段すれば中学生棋士だ。だが、そこに立ちふさがったのが永瀬と菅井だった。二人の将棋への情熱は奨励会時代から有名だった。

 永瀬は、蒲田将棋クラブで奨励会員やアマ強豪といつも将棋を指していた。師匠と電話で話していたとき、唐突に「永瀬君は四六時中将棋の勉強をしとるそうじゃないか。そうとう強いんだって? ウチの弟子たちの手強いライバルになるぞ」と言われ、師匠まで知っているのかと驚いたことがある。

 この師匠の「手強いライバルになる」という予言は後に的中する。

研究会の対戦成績表。平成21年(2009年)と日付が書かれている(筆者撮影)

 私が永瀬の観戦記を書いたときに研究会の数を聞いたら、「1月は対局と研究会が28日でした、元日だけは相手がいないので仕方なく家にいましたが」と言われ、呆れたことを覚えている。

 菅井は、岡山県から大阪の関西奨励会に通っていてネット将棋で鍛えていた。

 永瀬も菅井も、道場とネットの違いはあれど、年間1万局は指したという。これだけ指すというのは、もはや狂気の世界だ。棋士になるためには将棋が好きで好きでたまらないというのが最低条件で、努力は夢中に勝てない。しかし、二人にとって将棋は夢中を超えて命そのものだった。