――産経では、南京事件についても、ああいう虐殺がなかったという論調です。
伊藤 僕もそう思ってるんですよね。共同通信の偉い人で、当時、南京に行った人がね、「伊藤さん、あれ、かなり直後に近い時期に自分たちは入っていったけど、そんな気配は全然なかったよ」と言ってたの。その人はどっちかというと左翼組なんだけどね。
――伊藤さんには釈迦に説法なんですけれども、そのような証言は、いろんな当時の日記などとも照合しなければならないのではないですか。
伊藤 でもね、秦郁彦君が徹底的に調べて、ほとんどなかったという結論を出しているから、僕はそれを信用します。
歴史教育に“前提”は必要か?
――次に、歴史教育についてもお聞きしたいです。伊藤さんは2011年の『読売クオータリー』で、教科書問題について書かれていますね。それを少し読みますと、「我々は、日本の歴史は、我々が、1万数千年前から受け継いできた日本の文化の継承者であり、それを次の世代に伝えていくものであり、何か我々と別にあるものではないということ、つまり我々自身が歴史の中に含まれるものである、それが他の教科と異なるところだと思っているところです」と。
そして「どこの国でも、歴史教育は基本的に現在受け継いだ文化が素晴らしいものであるということを前提とするものです」と仰っています。伊藤さんにとって歴史とは、ここで説明された通りのご認識でしょうか。
伊藤 うん。
――そうしますと、歴史研究というものに、ある種色が付いているような気もします。つまり、「受け継いだ文化が素晴らしい」ということを前提に研究してしまうと、単なる事実などという話ではなくなるのではないか、と。
伊藤 自分が日本をどう見るかという問題は、学問の問題とは別なんだと思いますね。
――つまり、中学・高校で行われる歴史教育と、大学でやるような歴史研究とは、違うものだというご認識でしょうか。
伊藤 そうですね。
――そうしますと、戦前に近くなりませんか。戦前の義務教育では、天皇は天照大神の子孫であり、絶対不可侵などと教えていました。でも、高等教育に入ると、それは神話なんだともっとドライに捉える。久野収はこのような使い分けを「顕教と密教」と言っています。
伊藤 あぁ……。あなたの話、面白いね。
――ただ、久野がそこで言っている通り、これだと世の中の動き次第で「顕教」が「密教」を圧倒するリスクがありますよね。天皇機関説事件のとき、美濃部達吉の学説が「不敬」だとされたように。
『ファミリーヒストリー』のような学校教育
伊藤 そういう話になるんだろうな、と思って聞いていました。ただ、僕が日本人として日本をどう考えるかということと、日本史を客観的に分析することは、一応別ですね。ある程度重なる部分もありますけれど。
――なるほど。では、学校教育ではこういった、日本が素晴らしいということを前提にした教育をやるべきで、対して大学で研究するときには、そういうのは横に置いて……と。
伊藤 どこの国の歴史教科書を見たって、わが国はダメな国だと書いてある教科書はないですよ。
――そうすると、繰り返しにはなりますが、その教科書に影響を受けた人たちが、大学を「反日」だと攻撃する、そんな未来にならないかなというのが気になりまして。そういう懸念はないですか。
伊藤 ないと思いますけどねえ。
――では、学校教育では、たとえば日本の神話をもっと扱ったほうがいいと?
伊藤 だから、神話は神話として取り上げるべきだと。神話だからといって、これは教えることから外しちゃっていいということではないと言っているんです。
――そのようなお考えは、ずっと昔からお持ちだったんでしょうか。