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名声というプレッシャー

 若く有名なミュージシャンというくくりにおいて高い死亡率が見られることには、精神的な苦闘だけでなく、名声という要因も関係しているはずだ。名声ってヤツは、人間の弱さを狙ってプレッシャーをかけてくる。高収入でなければ続けられないライフスタイルの燃料(そして資金)となる。薬物依存や鬱や不安はどこにでもある現実だ。人生のあちこちに転がっている。だが創造性にあふれた人間がそういう危険な要素を持っていて、彼らの作りだしたものが大衆の琴線に触れたりすると、私たちはいきなりその人間の薬物使用に注目しはじめる。カート・コベインになれる魔法のクスリを探しているようなものだ。だがそんなクスリなどありはしない。なぜなら、クスリや注射器を使う前から、カート・コベインはカート・コベインだったのだから。彼の作った曲があんなにすばらしかったのは、血に混じった薬物のせいではない。血そのもののせいだ。あんな人間だったからこそ、歌は書かれた。彼にしか感じられない思いがあったから、彼にしか作れない音楽が作られた。物事ってのはこんなふうに眺めたほうが、みんながよくやるやりかたよりロマンティックではないだろうか。自殺や自傷は、苦悩する天才についてまわる必要不可欠な症状だと思われがちだ。しかし、コベインのそばにいて実際に迷惑をこうむりながらも彼を愛した人々は、そんなふうに考えていないし、本人もそんなふうには考えていなかった。晩年、ゴシップの嵐が狂乱状態に達したとき、彼はこんな言葉をもらしている。「みんな、俺に死んでほしいのかもな。それこそ古典的なロックンロールの物語だからね」彼は明らかに、一連の英雄譚からのプレッシャーを感じていた。根拠のないところから生まれ、なぜか人が共感するようになった英雄譚。だがグロール(編集部注:カート・コベインがフロントマンを務めたバンド「NIRVANA」のドラマー)は友人でありバンドメンバーであった男の死について、神話もマジックも感じなかったと証言している。「俺の人生で起きた最悪の出来事だったと思う。『そうか、俺は今日目を覚まして、また一日が始まるんだって思えるけど、あいつにはもうそれができないんだな』って感じだったよ」

精神的な病はカッコいいものじゃない

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 2015年、『テレグラフ』紙は「カート・コベインは『苦悩する天才』ではなく、病に苦しんでいた」という記事を掲載した。この記事のなかで筆者自身、「以前は幼児性というものに、どこかクールさを感じていた」と述べ、こう書いている。「神話のおかげで何年ものあいだ無数のレコードが売れたはずだ。(中略)クリエイティヴな才能と苦悩する魂。それは同じコインの表裏だとぼくたちは教えられてきた」。筆者はこのあと、何が自分の考えかたを変えたのか説明してくれる。それは、24歳のとき鬱になり自殺を企てたことだった。自ら経験した苦しさは、誰がなんと言おうとカッコのいいものではなかった、と彼は言う。実際、精神的な病は「カッコいい悪いで言えば、肉体的な病とまったく同じ」だった。

 銃で自殺する少し前、コベインは気管支炎で入院した。(中略)気管支炎は、ぼくたちの頭のなかでは、カッコよさと無縁のものでありつづけている。どれだけ多くのロック・スターがこの病にかかろうと、それは変わらない。「鬱による死」を「気管支炎による死」と同じように見ることはできないのだろうか。そうするべきだと思う。なぜなら、自殺をカッコいいと考えるのは、最悪の罪だと考えるのと同じくらい不健康なことだからだ。そういう考えこそ、ぼくたちの理解を妨げている。