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 馬主席で競馬を見るのがあまり好きでなかったそうで、GⅠのときには牧場にきて従業員と一緒に応援していたという。ライスシャワーの口取り写真にはいつも上品な女性が写っていた。栗林英雄の夫人、育子である。

 一方で、ミホノブルボンはライスシャワーから遅れること約50日、4月25日に北海道門別町の原口圭二牧場で誕生した。原口牧場は51年の創業で、原口圭二が2代目になる。ミホノブルボンが誕生した当時はアラブ馬や馬主から預かっている馬も含めて11、12頭の繁殖牝馬がいた。ミホノブルボンが登場するまで、生産馬の多くは地方競馬に行っていて、中央では特筆すべき活躍馬はいない。日高地方によくある家族牧場である。

「ウマ娘」でも関係性が濃いミホノブルボン(左)とライスシャワー(右)

ミホノブルボンを発掘した調教師・戸山為夫

 ミホノブルボンの母カツミエコー(父シャレー)も公営南関東の浦和で1勝しただけの馬だった。原口は地方競馬で産駒が大活躍していたミルジョージ(イナリワンなどの父)を種付けしたかったが、種付け料が高く、父親がおなじミルリーフというマグニテュードを配合する。85年の桜花賞馬エルプスの父だが、カツミエコーに配合されたときは2年分の種付け料が50万円と、桜花賞馬の父とは思えないほど格安だった。

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 そんなミホノブルボンを発掘したのは栗東トレーニングセンターの戸山為夫調教師だった。時間をかけたインターバルトレーニングで知られる戸山は、68年のダービーを逃げきったタニノハローモアなどを育ててきた。

 ミホノブルボンは栗東に完成して間もない坂路コースを使って徹底的に鍛えられる。血統は二流でも、抜群のスピードとそれを持続する体力とスタミナをつけていった。2歳時は3戦3勝。2着のヤマニンミラクルとは鼻差だったが、GⅠの朝日杯3歳ステークス(当時)にも勝った。騎手は障害戦を中心に乗ってきた地味なベテラン、小島貞博。戸山は自分の弟子を優先して乗せることを条件に馬を預かっていた、男気のある調教師である。