要請を守る、しんどい道を選んだ人々
だが国や都の要請である限り、当然「守る」ほうがパブリックには正義である。お酒の売上がゼロという経営の苦しみも、今すぐ動きたいのに一歩も前に踏み出せないもどかしさも、混乱を生んだ要請に対する悔しさも、彼らは黙って受け入れた。よりしんどい道のほうを選んだ、とも言える決断は、どんな思いから生まれたのだろうか。
「正直者が馬鹿をみる。そんな世の中になっちゃっているけど、それでもね。協力金と融資でなんとかやっていけるなら、そうした方がいい」
「法律だったり、校則だったり、僕らの身を守ることはすべての人に正しく当てはまるものじゃないから。少なくとも、僕は要請に従える状況にある」
「要請がいくら理不尽でも、ルールである限りしかたがない。ルールを守らないのは自分自身が気持ち悪いし、そんな気持ちのまま料理を作るのは嫌だなって思いました」
「僕らの店は商店街のほかのお店や、地元の人たちともいい関係を築いてきました。街の人は見ています。その信用を失いたくないから」
「できることを見つけて」新たな動きを見せる店も
先に「動き出せないもどかしさ」と書いたが、時短営業とノンアルコールを守りながら、できることを見つけて動き出すお店もある。
「(時短で)空いた時間を使って、他店へ料理やサービスの勉強に行きます。通常営業に戻ったらなかなかできないから」
「要請には従いながら、レストラン以外のマルシェなどで流通を止めない工夫をしたり、いろんな形で乗り越えていければ。また新しいプロジェクトの準備も進めます」
要請を守ることが正解なのか? その要請は正解なのか? 正解は誰が決めるものなのか?
第一波での大混乱から1年、今再び「何が正解なのかわからない」なかで、世の中に分断が起きている。お酒の提供を決めた飲食店を「身勝手だ」と非難する人。逆に要請を守っている店に「根性ないな」と吐き捨てるお客もいるという。
人と人とが分断される要因の一つは、「知らない」ことにある。自分とは違う背景を持つ人の答えを、その真意もわからないまま、自分の拙い想像だけでジャッジする。私たちは案外、気づかぬうちにそれをしてしまう。
要請を「守る」「守らない」「守れない」。それぞれの答えを出したシェフや店主たちが、そこへ至るまでの1年をどう戦ってきたのか。ここで時計の針を巻き戻してみたい。