ようこそ、「評価値ディストピア」の世界へ。将棋ソフトが局面を数値化して形勢を示す「評価値」、そして「暗黒世界(ディストピア)」を掛け合わせた言葉は、2020月7月のニコニコ生放送で佐藤天彦九段が発したものだ。これはソフトによる研究が過熱した結果、盤上が息苦しくなったことを意味する。将棋の戦術が先の先まで突き詰められるようになった結果、事前準備や序盤が緻密になり、棋士は戦う前に神経をすり減らすようになった。

 同放送で、佐藤天彦九段は身振り手振りを交えて力説した。スナイパーに赤外線レーザーで常に狙われている。そこに触れようものなら相手の研究にハマり、ノーチャンスで負けてしまう。だから匍匐前進で慎重に慎重に、指していかなければいけないのだと。

 将棋の進化は情報革命と密接に結びついている。データベースは定跡の整備を促し、ネット将棋で時間と場所を選ばずに練習できるようになった。そして、圧倒的な実力を誇る将棋ソフトを使えば、研究の精度を上げることができる。将棋の内容と質が向上する一方で、似た展開の将棋がますます増えた。その場の思いつきで指す、作戦の自由は失われつつある。

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 激化する将棋界で、元名人の佐藤九段は何を考えているのか。話を聞いた。

佐藤天彦九段

自分ひとりで考えるのと違い、疑似的な対話ができる

――「評価値ディストピア」は、AI研究でさらに過酷になったトップ戦線の重苦しさを端的に示したものだと思います。

佐藤 半分、冗談ですけどね(笑)。

――使い方に差はあれど、トップや若手強豪のほとんどはソフトで研究していると聞いています。佐藤九段が将棋ソフトを研究に使い始めたのはいつ頃ですか。

佐藤 2012年ごろですかね。新人王戦で2回目に優勝したとき、世界コンピュータ将棋選手権の解説を依頼されたんですよ。それでソフト同士の対局を見ていたら家庭用のPCでも強いことに気づき、研究に取り入れました。使っていたソフトは「Bonanza」(開発者は保木邦仁氏。2006年に第16回世界コンピュータ将棋選手権で初出場ながら優勝を果たす。ソフトはネットでフリーソフトとして公開された)とか、複数のソフトを使っていました。

――ソフト同士の戦いは異次元で、人間との将棋とは違います。当時はどうでしたか。

佐藤 いま以上に作戦や指し回しに違和感ありました。いまは違和感があっても、人間が「こうするべきなのかな」と寄せていく傾向がありますけど(笑)。当時の私はソフトを取り入れるというよりは、自分の考えた手や作戦をソフトにかけてみて、読み筋を見るぐらいでした。

 自分ひとりで考えるのと違い、疑似的な対話ができるから研究しやすかったですよ。でもソフトの読みもそこまで深くなかったので、結局は自分で考えている部分が多かった。それは地力をつけるのによかったでしょう。ソフトが強くなってくると、割と信用しすぎてしまうこともありますから。