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特集観る将棋、読む将棋

2021/06/18

――仮にそれが正解でも、戸惑うわけですね。

佐藤 そうですね。負けた側の正解の手が、例えばいきなり全財産の半分を仮想通貨に投機するような、当たり前の選択じゃなかったとします。ソフトによる解のみをもとにして一局を語るのは果たしていいことなのかは疑問です。地道な貯金や長期的な投資で頑張ってきた人が、突然「仮想通貨に投機したらもっと儲けていたのに、なぜあなたはしなかったのか」といわれても、かみ合わないと思うんですよ。突然、ハイリスクハイリターンの瞬間が訪れたといわれても、自分の常識に照らし合わせて99パーセント失敗しそうな方法は見向きもしないのが普通ですから。

 

勝負を解説する棋士も力量が問われている

――異文化の価値観で論評しても意味がないですし、技術がどれだけ進化しても一局の将棋をどう描くかは難しいです。

佐藤 何を論点とするのかは難しいです。盤上の合理性に基づいて、その将棋を判断するというのはもちろんあり。でも、その二人が指した将棋の魅力という点では、後から見た合理性よりは対局者自身が何を考えていたかが大事だと思います。

 昨年の竜王戦第3局▲羽生善治九段-△豊島将之竜王戦で、評価値は羽生さんがよかったんですけど、最終盤の▲5三銀が致命的な悪手になり、その銀を渡したばかりに最後は自玉が詰まされちゃったんです。ソフトは▲9四角だけが優勢を保つことができる手と示していたんですよ。一瞬は詰めろで、相手が受けてきたら詰めろは続かないけど、今度は受けに回ったら働くという手なんです。長く続いた一分将棋のなか、発見するのは相当に現実的ではありません。ここで「何で▲9四角を打てないんだ」「衰えた」と批判されるのは、プロから見るとありえない感覚に思えます。「そんなこといわれても知らないよ」というラインですよ。

 じゃあ、どう論評されるのがバランスの取れた視点なのか。▲5三銀を指して詰まされたのは良くなかったかもしれないし、それは指摘されたら認めるしかない。ただ、▲9四角を指せたんじゃないかという批判も、一分将棋ということも考えると現実的ではない。そこで純粋な合理性と人間的に指せるかどうかというバランスを考えた解釈として「▲5三銀は確かによくなかったかもしれない、でも▲9四角は指せない、じゃあ▲5三銀以外の手で粘れた可能性はなかったのか」という考えが浮かび上がってくる。これなら事実をもとにしつつも、対局の状況や人間の能力といった現実的なものを加味した論評・批判として、理解はできるとは思います。

 ただ、記者の方々はともかく、それを趣味で見ているファンの方々にも求めるのはハードルが高い。それに評価値が出てきて、「これのみが勝ちで、これが指せなかったから負けた」と解釈してしまうインセンティブをつけられていると思うんですよ。だからこそ、解説する棋士もかなり力量が問われていると思うんです。評価値に現れない勝負の駆け引きは、棋士自身も読まないといけませんから。

写真=松本輝一/文藝春秋

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