同誌の記者に直撃された皐月さんは、泣いてほとんど答えにならなかった。また、富士宮高校を“赤い学校”と呼ぶメディアもあり、「皐月さんが日本共産党に入党した」というデマが飛ぶなど、騒ぎはさまざまに飛び火し、混乱した。
事件を題材にした映画も登場。ところが…
8月11日付読売夕刊1面コラム「外人記者の直言」でタイム・ライフ誌のドワイト・マーチン東京特派員が「“村八分”と封建打破」の見出しで事件を取り上げた。
同氏は上京した皐月さんと面談したと記述。「この事件での村民の態度は極めて興味深い。彼らは村八分という慣習は時代遅れで、大部分の都会人的な日本人が容認しない封建的なものであることを知っている。彼らは質問を受けると、このような因習が上野村で行われていることを否定する。しかも、この少女自身、その母親及び、口に出すだけの勇気があった一、二の村民の話から判断すれば、この慣習が確かに実在することに疑いはない」とした。そして、改善のための最善の解決策は、教育によって封建主義から脱却させるしかないと説いた。
1953年3月8日、事件を題材にした映画「村八分」(今泉善珠監督)が公開された。俳優の山村聰が設立した現代ぷろだくしょんの第1回作品で、新藤兼人監督が主宰する近代映画協会との提携。脚本も新藤で、ヒロインの皐月さん役は当時「ニューフェース」の中原早苗だった。
ところが、実際に同年1月上旬から上野村で撮影が行われた際、住民の一部が撮影を妨害する騒ぎが起きた。映画の「演出補導」を担当した吉村公三郎監督が「中央公論」1953年4月号に書いた「映画“村八分”現地上野村ロケ記」によれば、妨害行動は土木建築業者の「若い者」も動員されて執拗に繰り返された。
吉村監督の文章は言外に、そうした妨害行為そのものが村八分の実在を裏付けていると主張した。教育や政治、法学などの立場から選挙違反と「村八分」を論じた意見が数多く雑誌などで紹介された。
「この事件は氷山の一角にすぎないと思う」
「社会教育」1952年10月号の匿名評論「風速計」は「この事件は、たまたま海上に現れた巨大な氷山の一角にすぎないと思う。なぜなら、同じような事実を発生させる社会的条件・社会的基盤が日本の多くの町村に存在しているからである。ここに社会的条件、社会的基盤というのは、主として日本の町村のいわゆる封建的な社会構造であり、日本の民衆―町村の住民ばかりでなく都市人までを含めて―の政治的関心の低さ、政治的感覚・認識の未発達である」と指摘。政治教育の重要性を強調した。
それを裏付ける証言は、東京農大教授(当時)我妻東策「日本農業の話題」にもある。東北の農村に実態調査に行ったときのこと。