「われわれが村の封建遺制の調査に来たことが分かると、部落の顔役の命令一下、婦人会長その他の部落の重立ち衆(中心人物たち)は口をそろえて『この村の選挙は自由公明で、投票の干渉などは全くありません。夫婦でも選挙だけは別です』と言う」
「言うところの自由選挙など行われているはずがないと思ったが、はたせるかな、一青年は『この部落では、全体の投票がまとまれば、村議でも農協役員でも農業委員でも、おのおの1名ずつは必ず出せるというので、部落推薦の形で選挙が行われ、部落民は顔役の指図に従って投票するので、投票の自由などは全くありません。もし指図に反するようなことをしたら、どんな制裁を受けるか分かりません』と言っていた」
「不正が行われた」という事実はなぜ薄れてしまったのか
事件を振り返ってみると、どこかで問題の焦点がずれた気がして仕方がない。皐月さんも「村八分の記」に書いている。
「不正事件が起きたという厳粛なる事実。それゆえに、なぜこのような事件が起きたのか、誰が一体このような事件を起こさせるのかということの追及、残念ながら、この点は非常に軽視されているように思いました」
「村八分の人権問題さえ、違反の事実より一歩ずれた問題であるのに、さらにその村八分の問題が個人的な生活態度とか思想問題へとずれていってしまうのだから、明らかに不正が行われたという事実が薄れかけていってしまうのです」
そのうえでこう宣言している。
「父に非行があろうと、家が貧しかろうと、私は確かに一人の人間として、この不正に抗議できる権利があるのだ」
問題の根源は、ばかばかしいほど単純で荒っぽい選挙違反にある。そして、それは「村八分」と一直線につながっている。
荒っぽく言えば、「村八分」が起きるような地域だから、選挙違反も発生するのだろう。本当は、それを起こさせた地域と住民の体質や構造に焦点を当て、地域の課題として追及し、改善の方策を考えるべきだった。
そうならなかった第一義的な責任は、村の有力者たちとそれに追随した人たちにある。だが、メディアの責任もそれに負けず劣らずと言っていいほど重い。皐月さんの行為を英雄視して褒めたたえるだけの報道にも問題はあったが、朝日以外の新聞などは、朝日の特ダネを否定しようとするあまり、問題の本質を見誤り、村八分を否定してスキャンダルを暴きたてるだけだったと考えざるを得ない。
「いつまでも白い目で見られる」?
上野村の事件はしばらくしてメディアから消えた。「週刊新潮」1959年8月17日号には「村八分の少女の7年」の見出しで、皐月さんの手記の形をとった記事を載せている。それによると、富士宮高校卒業後の1954年、法政大第二社会学部(夜間)に進学。学生自治会の機関紙編集のアルバイトと奨学金で学生生活を送った。
当時の気持ちについて「村を出ることに何となくためらいが感じられる。投書が原因で村八分になった当の本人が、途中で村を出ることは、はたしていいことだろうか。この場合、やはり村にいて、村の人々の有形無形の圧迫に抗しても、ある日までは踏みとどまるべきではないか、という気持ちが強く私を引っ張っていたのだ」と書いている。
しかし「途中は目をつぶっても、大学で勉強することが、上野村を含めて農村に共通する問題を本質的に解明できるのではないか、などとあれこれ考えたすえ、ついに意を決して進学に踏み切った」という。
そのうち、妹も富士宮高校で1学期を送っただけで上京してきた。さらに1956年には、家を人に貸し、田畑もそのままに両親が上京した。結局、一家全員が村を離れたことになる。「二人だけではどうにも耐えられなくなったのかもしれない」と皐月さんは書いている。