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「哲学者への身上相談」という企画で

――立花さんは1964年に東大仏文科を卒業後、文藝春秋に入社しましたが、2年半後に退社。当時書かれた「退社の弁」には、会社員生活を続けていては充分な読書時間を確保できず、死んでも死にきれないという焦燥感がにじみ出ています。その後、東大哲学科に学士入学された。

立花 東大哲学科に在学中から、学費を稼ぐために、僕はいくつかの出版社をかけ持ちで、雑誌に原稿を書いたり取材を手伝ったりしていました。当時の仕事でよく覚えているのが、「諸君!」(文藝春秋、2009年休刊)の編集部で手伝った、「哲学は現代を救いうるか」という特集です(1970年4月号)。

 特集の中の1本に、「哲学者への身上相談」という企画があった。ある若き経営者(広告制作会社)が、自分は何のために生きているのかということに思い悩み、哲学者に率直にその悩みをぶつけて答えてもらうという内容でした。答えてくれた哲学者が、東大文学部倫理学科助教授(当時)の小倉志祥(ゆきよし)先生です。

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©文藝春秋

 9ページにわたるこの記事は無署名の編集部原稿という体裁をとっていますが、実は僕がはじめから終りまで全文執筆しています。前説から2人の対談まで全部そうです。経営者が「大学1年くらいのころ、(死について)すごく悩んだ」と言うと、小倉先生はこう答えました。

「ぼくも旧制高校のころ悩みましたよ。1人で寝ている。明日起きたときに自分がいなかったらどうしようと思うと、恐くて眠れなくなる。正直いって、今でも死は恐いですよ。自分というものがなくなっちまうってことは悟りきれない」

自殺したいと何度も思った

 小倉さんのこの言葉を聞いたとき、僕はホッとしました。それまで他の人に自分には死の恐怖があると告白するのは女々しいようで恥ずかしいと思っていました。小倉先生が我々の前ではっきり「死は恐い」と認めた。何だ、全然それは恥ずかしいことではなかったのだと思いました。その後、自分でも人前で堂々と死の恐怖を認めるようになりました。

――立花さんの死の恐怖は観念的なものだったんですか。それとも、なにか具体性をおびたものがあったんですか。

立花 僕は、高校3年生くらいから、大学のはじめにかけて何度も自殺したいと思ってたんです。