語り得ぬものには沈黙せよ
自殺、安楽死、脳死など、生と死に関する問題は1つの問題群として捉えるべきで、それはその人の死生観と切り分けられない問題なのです。どの問題を考えるにしても、結局、自己決定権がある場合は、その人の自己決定に従うしかないだろうし、神あるいは運命に決定権がある場合には、それに従うよりないことだろうと思います。
――人の死生観に影響を与える要素として大きいのは、宗教です。立花さんの場合はどうですか?
立花 僕の両親はキリスト教徒だったので、一般の日本人の習俗を知らずに育ちました。今でも困ることがありますよ。お盆って何? と聞かれても答えようがない。当然、家に仏壇もないし、神棚もありません。むしろ両親はそういう日本の伝統的な習俗に反対していました。
「死後の世界は存在する」という見方は、日本人一般の人にとっては馴染みやすいところがあるのかもしれません。お盆になると死者が帰ってきて、仏壇のロウソクの炎を揺らすと教えられて育ってきた人にとって、この世とあの世がつながっているという考えは自然に受け入れられる。日本人の心の世界は、広い意味で、死者の世界との交わりを含めて成立しているように思います。
どの宗教的なグループに属するかによって、死生観は異なります。しかし、日本人の場合、自分がはっきりと仏教徒である、神道の氏子であると認識している人は少なく、ぼんやりとどこかのグループに属している状態です。その上、自分が属しているグループの教義なり世界観と、自分の信条が一致している人は必ずしも多くない。
仏教でも神道でも宗派によって死生観はかなり違いがあります。僕は2度目に結婚した家の宗教が神道で、葬式が神道で行われるのを経験しているんですが、仏教のゴテゴテ感がなくて、自然宗教的スッキリ感にすごく好感が持てました。キリスト教は他の宗教をすべて邪教と考える独善性がいやで、大学時代に離れました。いまは哲学的&科学的世界観にもとづく無宗教派といったところです。
――死後の世界が存在するという考えは、「あってほしい」という願望もあってか、なかなか捨てがたい面があります。
立花 そう考える人がいるのは仕方ありません。しかし、僕にとっては解決済みの議論です。死後の世界が存在するかどうかは個々人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて答えを出そうとする世界の問題ではない。
僕は文春を辞めて入り直した哲学科で学んだことの中で、いちばん大きな影響を受けたのがヴィトゲンシュタインの哲学です。彼が『論理哲学論考』の最後に書いています。
「語り得ぬものについては沈黙せねばならぬ」
死後の世界はまさに語り得ぬものです。それが語りたい対象であるのはたしかですが、沈黙しなければなりません。
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(取材・構成:サイエンス・ジャーナリスト 緑慎也)