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身近になった安楽死の議論

――自分の死を自分で決定するという問題と関連して、安楽死についてはどうお考えになりますか?

立花 非常に重い病気、たとえば難治性のガンにかかって、あらゆる手だてをつくしたが、回復の望みは全くなく、あとに待つのはひどい苦痛ばかりということになったら、そして本人の望みがそれしかないなら、許されてしかるべきだと思います。

 実は最近、僕の周辺でそういう問題がもちあがっていて、いろんな議論が仲間内で交わされている最中なんです。本人はまだ最終的決心をしているわけではないけど、議論はしてもらいたいということで、自分の病状を皆にオープンにしています。そして自分の未来が医学教科書に従えば「麻痺と激痛の中でもだえ苦しみながらの死」であることなどを。僕が彼だったら、遠からず、安楽死を選ぶだろうと思います。いま日本では安楽死を認めていませんが、幾つかの国では外国人に認めていますから、安楽死を求めて国を渡る人たちが出ています。

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©文藝春秋

 僕自身の場合は、外国にわざわざいって安楽死を求めるより、国内で最大限の緩和ケア(モルヒネづけで苦痛なし)をお願いすることになるだろうと思います。友人の場合は、彼がどのような決断をしようと彼の決断を尊重してやろうと思います。

 僕は長い間、人の死とは何かというテーマを追いかけてきました。1980年代後半から90年代前半にかけて取り組んだ、脳死問題に関する一連の言論活動でも、死の定義について徹底的に考え抜きました。医療技術の進歩によって、生と見ていいのか死と見ていいのかはっきりしない領域が出てきた。

 当時、死の定義を拡大して、脳死者からの臓器移植を普及させようとする立場に対して、僕は異議を申し立てる立場から記事を書いたり、話をしてきました。その頃、移植医療を推進したい側の人たちの集会に呼ばれて、議論したことがあります。そのとき、彼らのリーダーから突然、「あなたの死生観はどうなってるんですか」と聞かれたのです。それは僕のまったく予期しない質問で、虚をつかれて口をつぐんでしまったんですが、後になって「あなたの死生観はどうなんだ」というのは、正しい問いの立て方だと思い返しました。結局、その問いにきちんとした答えを持っていないと、あらゆる問題に対して答えようがないはずだからです。