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父の臨終をじっくりと見つめた

――このときは死の恐怖を感じたんですか?

立花 それはありません。高熱でほとんど意識が飛んでましたから。意識が戻ったときにこのまま死ぬのかなと一瞬思いましたが、またすぐ意識が消えていった。死ぬのが恐いなんて考えてるヒマはありませんでした。昔、宇宙飛行士で医師の向井千秋さんに、大事故を想定した訓練中、パニックになる人はいないのかと聞いたことがあります。彼女の答えはこうです。

「みんな自分がいま何ができるかを考えて必死で作業をはじめますから、プロとしての意識が全面に出て、怖いとかいったことは、あまり感じなくなるんですね」(『宇宙を語るⅠ』中公文庫)

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 いざ死の危機に直面すると、人間って、その状況を把握したり、その対応に駆け回ったりするのに精一杯で、死を心配している余裕なんてない。それが普通なんです。暇な人だけが死の恐怖にとらわれるんじゃないでしょうか。

©文藝春秋

――前回、死生観に影響を与える要因として、宗教や習俗について見解を伺いました。他に考えられる要因として、身近な人間の死もあると思いますが、いかがですか?

立花 誰しもそうだと思いますが、僕も両親の死に立ち会ったときは大きな衝撃を受けました。

 特に印象深いのは、父親の死です。

 父・橘経雄は2005年(平成107年)に95歳で亡くなりました。戦時中、30歳で北京に渡って北京師範学校、次いで北京高級中学校の教官を務め、戦後は1994年に書評専門紙「週刊読書人」の専務を最後に引退するまで長く出版業界に身を置いていました。日本出版業界の激動の時代を知る歴史の証人の1人です。是非、詳しい話を聞きたいと思っていましたが、亡くなる数年前に脳梗塞で倒れて以降、言葉をほとんど発しなくなって聞けませんでした。

 いよいよ危ないという時に、病床の傍に僕はいました。そして、彼の喉仏が上がったり下がったりするスピードがだんだん遅くなって、ついに止まるところを目撃したんです。散々人の死を見たり書いたりしてきましたが、人間が息を引き取る瞬間をじっくりと見つめたのはこのときがはじめてで、死とはこういうものか、と思いました。子供の頃、隣家のお婆さんの臨終場面に立ち会ったときは細部を見ていなかったなと思いました。そして臨終を細部までウォッチしたとき、そこに何か怖ろしいことが訪れる瞬間がある訳ではないと思いました。

「あなたが死を怖れるとき死はまだ来ていない。死が本当に来たとき、あなたはそこにいない。だから死は怖れるに当らない」というギリシアの哲人(エピクロス)の言葉通りだと思いました。