守るべき“一線”はどこにあるのか?
柳澤 そうですね。ただ問題はね、本当に一体化しているか、していないかという実態判断の問題はあるにしても、イラクのときは一応、「一体化しない」という建前が残っていたわけです。ところが、集団的自衛権というのは、米軍の戦闘行為と一体化するかどうかの議論は超えてしまっていて、米軍を守るために戦闘するという、自ら戦闘するという意味までも含まれている。だから、それは今までの憲法解釈とは質的にまったく異なるものなんだろうと思うんです。
――ちなみに、安倍さんが有事関連7法を成立させたとき(2004年)、柳澤さんは官房副長官補でしたよね。その前、周辺事態法が成立した1999年には運用局長でした。柳澤さんは自衛隊の役割を劇的に変えていく、まさにその渦中におられたわけですが、ご自身のお仕事は、安倍さんの解釈改憲のように“一線”を踏み出すことはなかった、というご理解ですか?
柳澤 本当にギリギリだったな、という安堵感というのかな……まぁ、一線を踏み出すことはなかったな、とは思っています。ただ同時にね、やっぱりイラク派遣を振り返ると、それは一線を越えていないから安心、なんて話じゃないだろうと。もう、こういうことを続けていれば本当に、もしかしたら自衛隊員が犠牲になるような事態が起きるかもしれない。でもそこで、憲法には合っているんだから犠牲になってもいいんだ、なんていうことは、私は絶対言っちゃいかんと思うんです。
自衛隊に何を、どこまでやらせるか
――自衛隊と憲法の話で言えば、自衛隊の存在や活動を広く認めるために憲法を改正すべきだ、という意見がありますよね。そのような主張についてはどう思われますか。
柳澤 自衛隊の存在や活動は今でも認められているし、現にここまで来ているわけですからね。問題はやっぱり、南スーダンだって、イラクだって、誰も死んでいないのがラッキーだっただけ、ということなので。南スーダンなんて、16年7月のジュバなんかを考えると、本当にとんでもない状況になっていたわけでね。
そういうものに目をつぶったまま、現場が抱えた矛盾をほったらかしたまま、これまでと同じことをなし崩しにやっていくために憲法改正しますというのは、本末転倒だと私は思っています。要は、自衛隊をそういうところに出せば、誰かが死ぬかもしれないし、相手を殺すかもしれない。そういう状況で本当にいいのかどうか、政治と国民の覚悟をしっかり問わないといけないはずなんです。
だから、憲法の字面をどういじるかというのは、それはもう将来、いかようにもやればいいと私は思っています。というのは、その憲法の下で私はたぶん生きていないからね。それは、その憲法下で日本を支えていく人たちが判断すればいい。しかし、本当に重要なのは、自衛隊に何を、どこまでやらせるかということです。このままでは、日本の旗のもとに、よその国の人間と自衛隊員が撃ち合いをして、戦死者が出る可能性がある。そういうリアリティを踏まえた上で、私たちがどこまでを覚悟するのか、それをもう一度考えなくてはいけないんです。
(後編に続く)
撮影=平松市聖/文藝春秋