1970年に防衛庁へ入庁して以来、広報課長、運用局長、官房長、防衛研究所所長など、日本の安全保障を担う重要な役職を歴任してきた柳澤協二さん(75)。2004年4月には事務次官級のポストである「内閣官房副長官補」として官邸入りし、前年から始まっていた自衛隊イラク派遣の実務責任者も務めました。
柳澤さんは退官後、第二次安倍内閣による新安保法制を痛烈に批判するなど、その発言でも注目を集めています。“日本の防衛”を内側から支えてきた柳澤さんは、今の安全保障環境、そして自衛隊をどう見ているのか――。近現代史研究家の辻田真佐憲さんが聞きました。(全2回の1回目/後編に続く)
官邸で目にした総理の“素顔”
――柳澤さんは2004年から2009年までの5年間、内閣官房副長官補として、4つの内閣(小泉・第一次安倍・福田・麻生)で安全保障と危機管理を担当されました。間近で各首相と接する機会も多かったと思いますが、それぞれの方の印象はいかがでしたか。例えば麻生さんについては、前川喜平さんとの対談本『官僚の本分』の中で、「がらっぱちのように見えますが、決してそうではない。悪ぶっているけど悪ではない」と仰っていますね。
柳澤 そうですね。自分の周りにはちゃんと気遣いされる方だし、口が悪いわりにはわれわれ相手にもしっかり挨拶はしてくれるし。そういう意味では、育ちのいい人だなという印象は持ちました。
――小泉さんについては、「あの人だからしょうがないみたいな、不思議なパワーを持っておられた」と仰っています。
柳澤 小泉さんは、直接われわれから話を聞くような場面はあんまりなかったけれど、何を考えているかというのは秘書官や事務担当の官房副長官を通じてきちんと伝わってきていました。そういう意味では、意思疎通はちゃんとできていたんだと思います。
私が小泉さんについて一番印象に残っているのは、アメリカのイラク戦争を支持する決断をしたときのことですね。官房副長官補として着任する直前のことなので、私は実際にその場にいたわけではありませんが、後で色々と聞いてみると、どうも周りは「アメリカを支持しましょう」という報告の上げ方はしていなかったようなんだよね。みんな支持しなくちゃいけないんだろうと思いながら、国内の反発とか法律論を考えて、「支持するとこういう問題点がありますよ」みたいな上げ方をしていた。
だから、あのときは本当に小泉さんがご自分で、一人で決断したんだと思います。自衛隊を撤収するときも、総理の決断だったんでね。そんな小泉さんの姿を見ていて思ったのは、やっぱり総理って最後は自分で決断をしなければならない、そこは非常に孤独なんだな、ということです。でもあの人は、リーダーとしてそういうことに耐えられる人だったし、自分で言い出したことは変えなかった。だから、すごくやりやすい総理で、われわれも信頼して仕事ができました。
安倍総理は安全保障に詳しかった?
――小泉さんとはそんなに会う機会がなかったとのことですが、官房副長官補として、首相と直接会って話をする場面というのは、そこまで多くはなかったのでしょうか。
柳澤 それは相手次第ですね。そういうことが特に好きな人……たとえば安倍さんとは、何回もお会いしました。集団的自衛権の有識者懇(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)は、安倍総理がぜひやりたいということだったので、直接やり取りをしながら立ち上げました。
でも当時、私はご趣味のような案件だという受け止め方しかしてなかったんです。自民党や公明党の幹部を含めて、誰もそんなこと(憲法解釈の見直しによる集団的自衛権の容認)をまともにできるとは思っていなかったのでね。しかし、総理がやりたいと言うなら、それは事務方としてちゃんとサポートしようと。勉強するという範囲であれば、私も関心はありましたし。
――安倍さんの安全保障に対する見識は、実際どれくらいのものだと思われましたか。