1970年に防衛庁へ入庁して以来、広報課長、運用局長、官房長、防衛研究所所長など、日本の安全保障を担う重要な役職を歴任してきた柳澤協二さん(75)。2004年4月には事務次官級のポストである「内閣官房副長官補」として官邸入りし、前年から始まっていた自衛隊イラク派遣の実務責任者も務めました。
柳澤さんは広報課長時代に斬新な広報誌『セキュリタリアン』を立ち上げ、その後は1期下の守屋武昌氏と激しい“次官レース”も繰り広げました。退官から12年が経つ今、防衛庁時代の記憶をどう振り返るのか――。近現代史研究家の辻田真佐憲さんが聞きました。(全2回の2回目/前編から続く)
「自衛隊を出せば戦争になる」と言われた時代
――柳澤さんは広報課長時代の1992年に、『セキュリタリアン』を立ち上げました。いまからみても、画期的な広報誌だったと思います。座談会が行われたり、ビジュアルがふんだんに使われたり、それまでのお硬い『防衛アンテナ』とまったく異なりますね。なぜこのような改革をしようと思われたのでしょうか。
柳澤 あれはねえ、ほんと、楽しかったですよ(笑)。私が広報課長になったのは平成の頭ぐらいなんですが、そのときに起きていたのは湾岸戦争なんですね。ただ、湾岸戦争が始まった直後は、防衛庁全体で何をやっていたのかと言われると、「みんなでテレビ見てました」というような状況だったんです。一方で、同じ年に雲仙普賢岳の噴火があって、湾岸戦争が終わった後は機雷除去のための掃海艇派遣もあった。そうした場面で自衛隊の出番が結構出てきて、注目が集まっていた時代でもあったんです。
つまり自衛隊としては、今まではソ連が攻めてきたら戦うんだ、というような部分でアイデンティティを持っていたんですが、そういう大袈裟な話ではなくて、もっと目の前で起きていることに対して動いていかなきゃいけないんだ、という状況になってきた。
そんな中で、確かカンボジアPKOのときだったかな、どこかの新聞社が駐屯地の営門の前で、夕方勤務を終えて帰る通りがかりの隊員に「自衛隊の派遣についてどう思いますか」と直接聞きたい、と言ってきたんです。そのときはもちろん、そんなことをやらせていいのかという意見もあったけど、私はやってもらえと言ったんです。なぜかといえば、当時は自衛隊を出しちゃいけない、自衛隊を出せば戦争になるといった議論があったんですが、自衛隊員自身が何を考えているかを知ってもらえれば、そんな心配をする必要はなくなるんじゃないかと思ったからです。自衛隊員も一人の日本国民として、みなさんと同じ目線でものを見てるんだ、と知ってもらうことが必要なんだろうな、と。
前の広報誌は「読む気もしなかった」
――その発想から『セキュリタリアン』も?
柳澤 『セキュリタリアン』は広報課長を始めて2年目ぐらいに思いついたんです。それまで、防衛庁や自衛隊というのはずっと国民から批判される立場でした。それに対して『防衛アンテナ』は、防衛庁長官の訓示みたいな、結局は言い訳とか、上から目線でのお説教のようなものしか発信していなかった。それでは国民との距離は縮まらないし、そもそも読む気もしないぐらいつまらなかったんです。
これは私のパーソナリティでもあるんですが、頭で理解してもらうんじゃなくて、背中を見て共感してもらうことが大事なんじゃないか。そのためには理屈ではなくて、等身大の自衛隊の姿をそのまま出していこう――というコンセプトで始めたのが『セキュリタリアン』です。自分たちの存在そのものが広報なんだ、という発想ですね。
――『セキュリタリアン』では様々な企画や記事がありましたが、特に思い出深いものはありますか。