入庁初年に「三島事件」が起きた
柳澤 本当にね、「なんで? お前、変わってるな」という目で見られましたよ(笑)。私は別に軍国少年でもなかったし、大学生の頃にはベトナム戦争があって、戦争反対のデモまではしなかったけど、そういうような議論もしましたし。一番大きな動機は……ずっと私は、司法試験を狙っていたんです。ただ親父が会社を潰していて、奨学金とバイトで生活しながら1年留年したりもしたんですが、これはちょっと無理だなと思ってね。そこで、司法試験を諦めたからにはちゃんと就職しなきゃいかん、ついては公務員だと。
それで官庁回りをやったら、防衛庁がすごく魅力的に見えたんです。「自衛隊という巨大組織をきちんと管理していく、大きな責任とやりがいのある仕事です」というのを真に受けちゃって(笑)。でも結果的には、そういう仕事に恵まれたと思っています。
――入庁した年には、いきなり三島事件がありましたよね。
柳澤 あれはね、ショックを受けていた人がいました、という印象ですね。特に私が最初に仕えた先輩は、本当に極右的な思想の方だったんです。そういう思想が偏っている人は今も昔も、あまり採用してもらえないものなので、よく役所に入れたなと思ったんですが、その先輩と事件について議論したのを覚えていますね。あれは作家としての敗北なんじゃないか、いや、お前は分かってない……と。
後になって、私もあの事件の意味というのは自分なりにわかるようになりましたが、当時は市谷台のバルコニーの下で「お前、引っ込めー!」と言っていた隊員さんと同じレベルの、「なに馬鹿なことやってるんだ」という受け止め方でしかなかったですね。
「防衛庁の天皇」の意外な一面
――実際に防衛庁に入ってみて、中の雰囲気は予想と違う部分もありましたか。
柳澤 もっと堅苦しいところだと思っていたので、それは意外でしたね。忙しいシーズンには夜遅くまで残業して、夜食を食ったり、酒を飲んだり……。職人の仕事場みたいな感じだったので、その分、行儀作法なんかもそんなに問われませんでした。中には警察から来た先輩で、うるさい人もいましたが。
――当時の防衛庁は警察出身の方や、大蔵省出身の方も多かったと思いますが、それぞれの出身によって何か違いはありましたか。
柳澤 一般的には、警察官僚が防衛庁で官房長とか局長になると「僕も昔、機動隊一個中隊を指揮したんだけどね」なんてことを言うんです。だけどね、戦車一個中隊と機動隊一個中隊では、全然やり方が違うんだから、わかったような顔をしないでくれ、みたいな思いが私たちにはあるわけ。一方で大蔵省の人はもっと合理的な発想で来るから、そこはむしろ抵抗なくお付き合いできるな、という感じはありましたね。
――入庁当時の1970年ですと、海原治さんが国防会議の事務局長をされていました。海原さんはその豪腕ぶりから「防衛庁の天皇」などとも呼ばれていましたが、そうした先輩たちのイメージはどうでしたか。
柳澤 海原さんは、お辞めになってから広報課に色々と資料を受け取りに来られたんですが、そのときの印象が強いですね。「いつもすみませんね」みたいな、すごく腰の低い方だったので、「この人が天皇と呼ばれていたの?」と思いました。しかし、やっぱり海原治にしても、西広整輝にしても、久保卓也にしても、偉大な先輩っていましたよ。自分の頭で考えて、一つの理屈、自分なりの理論、哲学を構築されていて、私にとっても憧れであり、目標でした。