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「私は詰めが甘かったので、次官レースに負けました」75歳元防衛官僚が振り返る“熾烈な出世争い”

柳澤協二さんインタビュー#2

2021/07/11
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――今、西広さんや久保さんの名前が出ましたが、彼らとの具体的な接点はありましたか。ふたりとも次官経験者で、1976年の防衛大綱の取りまとめなどにも深く関わったとされていますね。

柳澤 西広さんは防衛庁プロパーキャリアの2期生ですからね。それはもう、麻雀に誘ってもらったり、飲みに連れて行ってもらったり。すごく頭のいい人だったから、野党の政治家なんかと議論するときは、むしろ相手の方が楽しみにしていましたね。一種の剣豪のような雰囲気がありました。久保さんとはまったく関わりはありません。

官邸から「田母神事件」をどう見ていた?

――いっぽうで、幹部自衛官との接点はどのあたりから生まれてくるものですか。

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柳澤 私の場合は、とくに局長になってからですね。運用局長、人事教育局長をやっていたので、各幕僚監部の防衛部長がカウンターパートになるんです。だいたい年格好も同じなんですよ。当時は、最初の海上警備行動を出したような時期ですから、「こういうときはどうしたらいいんだろうね」みたいなことを、幕僚監部とはかなり頻繁にやり取りしました。

 局長室で昼飯を食いながら議論したり、こっちから夕方、統幕陸海空の部長さんの部屋に行ってビールを飲みながら議論したり。そういう意思疎通は必要なことだと思っていたし、嫌いじゃなかったから、本当にみっちりやりましたね。

――その後、官邸にいらっしゃったときだと思いますが、田母神俊雄さんの論文事件が2008年にありましたよね。あれはどうご覧になっていましたか。

田母神俊雄氏 ©文藝春秋

柳澤 まぁ、田母神さんだからね、もう(笑)。そういう人をよく空幕長にしたよね、って感じでしたよ。むしろ、田母神さんだったらそのぐらい言うでしょうと。

――外部からは、自衛官の思想問題を心配する声も挙がっていましたが。

柳澤 そこは、ちょっと違うなと思ったのは、あのときに陸上自衛隊はむしろ、俺たちは国民や地元との関係を考えながら、いつも一生懸命気をつけてやっているのに、なんだ、あいつは自分だけ言いたいことを言いやがって……という、そういう雰囲気だったんです。

「出世争いのライバル」守屋武昌氏のこと

――なるほど。また防衛省内の話に戻って、もうひとり、守屋武昌さんについても伺いたいです。柳澤さんの1期下に当たる守屋さんも「防衛省の天皇」などと呼ばれていましたが、正直なところ、近くでご覧になっていてどのような印象をお持ちでしたか。

柳澤 それはね、守屋君は出世争いのライバルでしたから。ただ、やっぱり彼の方が長けていたと思いますよ。政治家あしらいも苦にせずに、うまくやってたしね。中で言い合うこともありましたけど、まぁ最終的には私の詰めが甘かったから、次官レースに負けたんだなと思っています。

――守屋さんは仲間を使って、情報が自分のところにだけ集まるようにしていた、などと指摘する向きもあります。やはり出世するためには、そういう仲間作りも必要なんでしょうか。