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手紙に見え隠れする弱気と諦念

 しかもその上に、戦勢いよいよ急をつげはじめた昭和18年ともなると、くり返し知人への書簡で、たとえば「この世にもあの世にも等分に知己や可愛い部下がゐることとなり、往つて歓迎をしてもらひたくもあり、もう少々この世の方で働きたくもあり、心は二つ身は一つといふ処にて候」という風に、心のうちにある死への熱い想いを吐露しはじめるのである。勝利のためにいかなる艱難辛苦にも堂々と立ち向かわねばならない戦士が、戦端を切って1年にして早くもこの弱気と諦念をみせるとは。これはもう女への恋文以上にやる瀬なく、かつ寂しく感じられてならない。

山本五十六 ©文藝春秋

 そこにはあるいは、平和を希求しながらついに成すところのなかった己れにたいする自己嫌悪、あるいは戦争を指揮せねばならないことにたいする強烈な嫌悪があったのかもしれない。山本は国家滅亡を招致するゆえにと、対米英不戦をたえず主張しつづけてきた。にもかかわらず、祈りの及ばぬさきで戦争は起り、みずからはその陣頭にたって戦わねばならないのである。もはや対米英戦争は避けられないと覚悟をさだめたとき、すなわち16年10月11日付けの、親友堀悌吉予備中将あてのよく知られた書簡がある。

死へのつきせぬ思い

 之が天なり命なりとはなさけなき次第なるも、今更誰が善いの悪いのと言つた処ではじまらぬ話なり。(中略)個人としての意見と正確に正反対の決意を固め、其の方向に一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なもの也。之も命といふものか。

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 死へのつきせぬ想いはすでにこのときに発していたものかもしれない。

 そう考えると、同じ新潟県立長岡中学校卒業の後輩として、恋文だけでこの“悲劇”の提督を判断するのは、先輩にたいしてあまりにも礼を失することになる。山本にはもっと大事な、もっとこの人らしく内なる心情を吐露した書簡二通が幸いにも残されている。山本はいずれにたいしても「読後、焼却されたし」と欄外に付記していた。実物はそのとおり消滅した。けれども、慎重な、というよりも歴史を意識したこの人は「控」を、心ある人に託していた。その下書きのほうが、戦後も数十年たって探しだされたのである。