山本五十六、一縷の希望
それには非常の勇気と力とを要し、今日の事態にまで追込まれたる日本が果して左様に転機し得べきか、申すも畏(かしこ)き事ながら、たゞ残されたるは尊き聖断の一途のみと恐懼(きょうく)する次第に御座候。
山本が一縷の希望をつなぎとめたのは、昭和天皇の「NO!」の一言なのである。しかし、その天皇は、ついに“無言”のまま東条内閣の「戦争決意」の国策を裁可した。
12月8日、山本は「述志」と題し、いよいよ開戦にさいしての覚悟を書いている。
「此度は大詔を奉じて 堂々の出陣なれば 生死共に超然たることは難からざるべし
ただ此戦は未曾有の大戦にして いろいろ曲折もあるべく 名を惜しみ己を潔くせむの私心ありては とても此大任は成し遂げ得まじとよくよく覚悟せり
されば
大君の御楯とたたに思ふ身は
名をも命も惜しまさらなむ」
事故抹殺の精神に基礎を置いたギリギリの決断
「名をも命も惜しまない」と山本はいう。かれにおける真珠湾なぐり込みのハワイ作戦とは、ただ一途に部下の忠誠に支えられた、と同時に、いわば名をも命も惜しまぬという自己抹殺の精神に基礎をおいたギリギリの決断であった。あえていえば「必敗の覚悟」で虎穴に躍りこもうというのである。そして、もしもこの作戦が失敗するようなことがあった場合は、天はわれに与せず、と山本は自決するつもりであったと思われる。
それゆえになおさら、それほどの覚悟の作戦であるならと惜しまれることがある。すなわち弱者が強者を倒すためには、息もつがせず二の太刀三の太刀で突きまくり、完全に相手の息の根をとめねばならなかったのである。機動部隊は真珠湾沖に座りこんで、米海軍が再起不能になるまで叩きつづけねばならなかった。そのためにも山本は、みずから名乗りをあげたように、機動部隊を指揮してハワイへ出撃せねばならなかった。
かれがいう「桶狭間」の織田信長も、「ひよどり越」の源義経も、「川中島」の上杉謙信も、主将みずからが陣頭に立っている。しかし、昭和16年12月8日、山本はハワイからはるかに遠い瀬戸内海にとどまって、河合千代子あての甘い恋文を書いていたのである。
【前編を読む】“儀礼的最高位としての天皇なんかはいらない” 歴史探偵・半藤一利が史料から読み解く「織田信長の極限思想」
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