低価格と居住性で復活「アーバンライナー」
東海道新幹線の開通で、近鉄は名阪特急という表看板のひとつを奪われた。しかし、近鉄にとって東海道新幹線から受ける恩恵も大きかった。「ひかり」で東京から、「こだま」で神奈川や静岡から、大勢の観光客がやってくる。近鉄は名古屋と京都で新幹線の駅に連絡している。そこで、京都から奈良、橿原神宮へ、名古屋から伊勢志摩へ、特急網を形成した。
1970年の大阪万博に向けて、上本町~近鉄難波間に近鉄難波線が開業すると、近鉄特急は市営地下鉄各線から利用しやすくなった。とくに新大阪駅から御堂筋線で近鉄難波に到達できるから、大阪~伊勢方面、南大阪線~吉野方面の特急も活気づいた。この傾向は山陽新幹線の延伸も背中を押す形になった。
名阪間だけみれば国鉄はライバルだったけれど、広大な近鉄特急網にとって、国鉄はありがたいパートナーだ。当時、近鉄に求められたのは観光特急だった。その看板列車として、3番目の2階建て特急電車が投入された。それが30000系「ビスタカー3世」、現在は「ビスタEX」だ。中間車2両を2階建てとし、不人気になりそうな1階席はグループ客用の半個室とした。宴会する人々は景色を観ないといえば、まあ、その通りである。
1980年代、相対的に人気薄になってしまった名阪特急に、新たな光が差す。国鉄の赤字が問題となり、経営改善策として毎年のように運賃の値上げが行われた。高額になってしまった新幹線を嫌い、そうかといって特急がなくなった東海道本線の各駅停車では我慢できない人々が近鉄名阪特急に帰ってきた。名阪特急は甲特急、乙特急ともに増発された。
コストパフォーマンスを重視する京阪神の商人気質と、地元の鉄道、近鉄への愛着が奏功して、近鉄は名阪特急の価値を再認識した。近鉄は新たな勝負ポイントとして「居住性」にも注目し、従来の近鉄特急にはない、新たなコンセプトの新型車両に着手する。スピードもあきらめない。大手私鉄で初めて最高速度120キロを実現した。
1988年。名阪甲特急の新コンセプト「アーバンライナー」こと21000系電車がデビューした。当初は6両編成3本が製造された。2~3両だった名阪特急で6両編成とは思い切った施策で、実はこの3本は2両を外して4両でも運行できる仕様だった。しかし、実際に走らせてみれば盛況で、最少6両編成で8本が導入された。合計で6両編成11本、増結車2両3本も用意されて、多客期には8両編成で運行する。
「スピードで勝てなくても、価格で勝負できる」
客室は4列座席のレギュラーシートと3列座席のデラックスシートを用意。標準軌とはいえ車体は新幹線より小さいけれども、レギュラーシートは5列座席の新幹線普通車よりゆったりとした空間を整えている。デラックスシートは新幹線のグリーン車に相当する。座席も上等ながら、レギュラーシートとの差額は410円(2005年筆者乗車時)だから、かなり乗り得な設備だった。