その日は朝から泣き通しだった
このくらいの子供さんにはよくあることだと自分に言い聞かせて、迎えに来られたお母さんには、このことを話しませんでした。
次の日、和也君はお母さんに抱っこされ、泣きながら登園してきました。このようなことも今までに何度かありましたので、虫の居所が悪いのかもしれないと、それほど深く考えずに声を掛けました。
「どうしたの、和也君」
私がお母さんの手から和也君を預かると、さらに大きな声で泣き出しました。
「先生、すみません。今日は朝からずっと泣きどおしなんです」
お母さんもそれほど深刻には捉えられていない感じです。
しかし、ここで和也君は泣きながら、驚く言葉を発しました。
「あーん、みんなげんきにしていてね。ぼくはちかくにいるからね」
「和也君、どういうこと？」
私は思わず聞き返しましたが、泣くばかりで要領を得ませんでした。
お母さんには後で報告することにして、そのまま保育園にてお預かりすることにしました。
和也君が泣き止んだのは、その後20分も経ってからでした。長く泣いて疲れたのか、泣き止むと寝てしまいました。
1時間近く寝ていた和也君は、目が覚めると機嫌良く「おはよー」と大きな声でいつもの様子に戻っていました。
「もうだっこしてもらえなくなるの」
「和也君、もう元気になった？」
私が聞くと、和也君は少し悲しそうな顔を私に向けました。そしてその後、視線だけを教室の隅へと向けたのです。
「どうしたの」と再び私が尋ねると、和也君は今までに無いほど私をじっと見つめてきました。
「あのね。カズくんね、もうだっこしてもらえなくなるの。でもね、ぜんぜんいたくないって」
そう言いながら、一筋の涙を流しました。
正直とても驚きました。和也君が我慢をしていることにです。普段、このくらいの年齢の発達障害を持つお子さんは、我慢をすることを嫌うのですが、和也君は大きな声で泣きたい気持ちを我慢しているのが、手に取るように分かったのです。
思わず「和也君偉いね」という言葉が出ていました。
それを聞いた和也君はとても嬉しそうな表情に変わって、「うん」と元気に答えてくれました。
そしてその元気な返事の後に、「なーちゃんがいっしょにいてくれるからさびしくなんかないよ」と話してくれました。
何となく嫌な予感がして、私はこのことをお迎えに来られたお母さんにお話ししました。
お母さんは「そんな話をしていましたか……」と、とても悲しそうな顔をされました。
「あの子が言う“なーちゃん”とは、もしかしたら、和也が子供の頃に飼っていた犬のことかもしれません」
なーちゃんと名付けられたその犬は、甲斐犬という犬種で、とても頭が良く、生まれたての和也君の面倒をよく見てくれたそうです。
