昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載昭和事件史

「米国では死刑もの」の“芸人の息子誘拐事件”…“嫌われた人気者”の流した涙

トニー・谷長男誘拐事件 #1

2021/08/08

 身代金を目的とした誘拐事件はいまも時折起きる。数多くの犯罪の中でも特別な関心が寄せられるものの1つだ。まして被害者の家族が有名人ならなおさら。

「占領軍の影を引いた」といわれた特異な芸風で、業界内では嫌われながらも人気絶頂だったコメディアンの長男がさらわれた今回の事件は、国民に大きな衝撃を与えた。1週間で無事解決したが、誘拐罪の厳罰化を求める声が強まり、それまでなかった身代金目的誘拐罪の創設につながる。それだけでなく、被害者側のコメディアンに対する批判、攻撃も巻き起こり、その後の芸風や人気を大きく変化させることになった。

 いま振り返ると、事件は一面で戦後の終わりを暗示していたようにも感じられる。なお「トニー谷」とした新聞もあるが、本文は「トニー・谷」の表記で統一する。今回も差別語・不快語が登場する。

誘拐事件発生を報じた読売

客を怒鳴りつけ歌手を罵倒した男、トニー・谷

 どれだけの人がトニー・谷という芸人とその芸を覚えているだろうか。派手な上下の服に蝶ネクタイ、フォックス型と呼ばれる両端が跳ね上がった眼鏡に、やはり跳ね上がった口ひげというキザなスタイル。のちに赤塚不二夫氏のマンガ「おそ松くん」の登場人物「イヤミ」のモデルにもなった。時にはステッキを持ち、時にはソロバンを楽器代わりに、舞台に登場すると、こうまくしたてる。

「レディース・アンド・ジェントルメン……アンド、おとっつぁん・おっかさん、おこんばんは。ジス・イズ・ミスター・トニー・谷ざんす」

 戦後すぐの生まれの私にも記憶がある。印象は強烈だったが、好きにはなれなかった。それはラジオだったのだろう。舞台ではさらに過激だったらしい。小林信彦「日本の喜劇人」にはこうある。

 質の悪い客がいると「お黙り!」とか「シャラップ! アホウ!」と怒鳴りつけて、客とのあいだに、一種の緊張状態をつくり出してしまう。これがウケるのだから、邪道の邪道たるゆえんである。

 それどころか、歌手がムードを盛り上げていると、舞台の袖から現れて、下品なフラダンスを踊り始める。むろん、客は大笑い、歌手はボロボロになる。

 なおかつ、

 「ほーんと、どこが、いいんざんしょね……あんな下痢チエミとか雪村ネズミなんて!」

 と、歌手まで罵倒するのだから、狂気の沙汰である。 

 当時売り出し中の江利チエミや雪村いづみまでギャグのネタにしていた。だから、歌手やほかの芸人のほとんどから嫌われた。彼の“英語”は「トニングリッシュ」と呼ばれ、吐き出す言葉のいくつかは流行語になった。

 バッカじゃなかろか

 家庭の事情

 さいざんす

 聞いてちょうだいはべれけれ

 お下劣ね

 ネチョリンコン