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「トニー・谷は、何をやっても、ひとに憎まれる。サディスティックだからである」と「日本の喜劇人」は書く。嫌われながら人気を集める不思議な芸人。そんな彼に事件が起きたのは、絶頂期の1955年7月のことだった。

「笑いの天才児トニー・谷の目にはキラリ涙が光っていた」

 戦後のボードビリアン第一人者として活躍しているトニー・谷=本名・谷正氏(37)、東京都大田区新井宿4ノ380=の長男正美ちゃん(6)=同区立入新井第四小1年4組=はさる15日正午ごろ、学校からの帰途行方不明となり、谷氏から16日、大森署に捜索願が出された。同署で調べたところ、正美ちゃんが1人の男に連れられて、自宅とは反対の方向に歩いて行くのを同級生の1人が目撃しており、さらに同日午後、谷氏宅に速達で「身代金20万円を出せ」との脅迫状が届いていたことが分かり、正美ちゃんがさらわれたことは決定的となったので、計画的な誘拐事件とみて極秘のうちに捜査を進めている。

 1955年7月18日付読売朝刊は社会面トップで「トニー・谷の愛児誘かいさる 身代金20万円を要求 3日前学校帰りに黒服の男」の見出しでこう報じた。20万円は現在の約120万円だが、これは誤りで、実際の要求金額は10倍の200万円(現在の約1200万円)。本名も谷正ではなく大谷正太郎だった。

正装したトニー・谷(「文藝春秋臨時増刊号スタア」より)

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 羽中田誠「足 新聞は足でつくる」は当時読売社会部デスクだった人の回想録だが、それによれば、7月17日午後3時すぎ、大森で店をやっているらしい人から「ウチの店員が近所から聞いてきた」として電話で情報提供があった。彼の指示で大森署の担当記者が取材を開始。その結果としての単独インタビューが同紙に載っている。

 “無事を祈るだけだ” 町角で待ち明かす谷さん

 17日夜遅く大森の谷さんの自宅を訪れると、近くの街角にたった一人、ションボリたたずんで暗闇を探るように見つめている谷さんに出会った。さる5月初め、関西巡業中、過労から胸部疾患に倒れ、自宅に静養している谷さんは街路灯の下で白いアンダーシャツに作業ズボン、サンダルをつっかけてあてもなく子どもを待っていた。頬はこけ、病み上がりにしても濃すぎる無精ひげ。ポツリポツリと弱々しく語る口調に、舞台で見せる機関銃のようなあの勢いはなかった。

―子どもさんのことで聞きたいが。

「参った。普段舞台でバカを言っているオレも、子を思う親の心は同じさ。これでも根は寂しがり屋なんだからね。無事に帰ってきてくれるのをジリジリしながらね、待ってるのさ」

―この事件は予想していたのか。

「全然考えてもいなかった」

―犯人の言うなりにするのか。

「その点は一切警察に任せてある。オレとしちゃあ、あれが無事に帰るのを祈るだけで精いっぱい、人一倍子煩悩なんだよ」

―犯人に心当たりはないのか。

「全く見当もつかない」

 その言葉は犯人に訴えるようで、口癖のサイザンスも交らない。笑いの天才児トニー・谷の目にはキラリ涙が光っていた。