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 宮坂に対しては営利誘拐と恐喝未遂で東京地裁で公判が開かれ、1955年12月27日、懲役4年(求刑同8年)が言い渡された。世間の親たちに与えた不安が大きく反社会性が強いが、川遊びや温泉に連れて行くなど、正美ちゃんを虐待した形跡がないことが認められた。

一審判決は懲役4年だった(朝日)

 宮坂は控訴。事件から1年がたった1956年7月15日には、保釈されて都内に住む宮坂夫妻に、トニー・谷から現金が贈られたことが、7月16日付毎日朝刊社会面コラム「雑記帳」に載っている。

 同年9月27日の控訴審判決はまた減刑されて懲役3年だったが、宮坂は上告。妻子を抱えて生活苦が続いたためか、1957年5月、口頭弁論に出廷した帰りに新宿駅構内の喫茶店で睡眠薬自殺を図った。命は取り留めたが、保釈を取り消され、6月に上告を取り下げて服役した。

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 1964年7月、身代金目的誘拐罪を新設して最高刑を無期懲役とする刑法改正が施行された。1960年代、「吉展ちゃん事件」などの誘拐事件が多発したのが直接の原因だったが、端緒はトニー・谷の事件だった。

宮坂自殺未遂を伝える読売

「小バカにした態度に反感」

 こうして事件は一見落着したように見えたが、トニー・谷という芸人の運命はここから大きくカーブを切る。その予兆は事件解決の翌日、1955年7月22日付夕刊読売の「甘い男の夏の夢」という記事の中にある。身柄を拘束されてカメラのフラッシュを浴び「どうしてこんな大騒ぎをするのだろう」とつぶやいた宮坂忠彦は、取り調べにトニー・谷家を狙った動機を次のように供述した。

「トニー・谷の、社会風刺というよりも人を小バカにした放送に反感を持っていた。雑誌『婦人倶楽部』に、正美ちゃんの入学祝いを記念した谷一家の写真を見たとき、そうした反感を、あどけなく笑っている正美ちゃんにぶつける気持ちになった」とも言っている。

浴びせられた「『盗人にも五分の理』というわけなんだろう」

 この視点を全面展開したのが「週刊朝日」1955年7月31日号の特集「トニー・谷に忠告する―誘かい事件を機に」だった。

大宅壮一 ©文藝春秋

 記事では、評論家・大宅壮一が事件のポイントの1つとして「植民地的ないまの日本の中で、最も植民地的な名前と芸を売り物にしているトニー・谷だということだ」と指摘。夕刊読売に載った供述を取り上げて次のように述べている。

 この言葉は注目に値する。「盗人にも五分の理」というわけなんだろう。

 つまりトニーの邸宅も、財産も、どうせアブク銭じゃないかという気持ち。これは事件を通じてトニー・イングリッシュに拍手する現代人でも、その心の底には多少は持っている反感である。

 今度も、最初は、多くの芸能人たちの間には「トニーの演出か」とうわさされ、しばらくたっても「あまり騒がれすぎたんで、演出も引っ込みがつかなくなった」などと極言する者まであったことは、一概に芸人社会のヒガミとばかり言い切れまい。

 現にトニーの家には、あの最中にもかなりオカシナ電話がかかってきたりしている。かける連中もオカシイが、かけられたトニーにもまんざら責任はないとは言えまい。

 トニー・谷の場合は、名前からして日本製のアメリカ人か、まがいものの日本人か、国籍がどこか知らぬような芸能人が売り出すというのは一体どうしたことであるか。そこにも現代の日本の断面がある。