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 大宅壮一にして、いかにも偏見に満ちた見解だと思える。「あんな芸をやっているのだから、犯罪の被害者になっても当然だ」と言わんばかり。

 さらに「テレビやラジオでの犯人への呼び掛けも、本人には悲壮で、その気持ちには同情されるのだが、心のどこかで『愛児を誘拐された父親の悲しみ』というお芝居を見せられているような感じはぬぐえなかった。これはトニーの悲劇であろう」とも語っている。この特集はそうした立場から「トニー・谷の素顔をあばく」ことに力を入れている。

 評論家・十返肇は「評論集 現代文学の周囲」の中で事件について次のように述べた。

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「最も常識的な主張は、トニー・谷も人の子の親であるならば、今後はあまり子どもに悪影響をもたらすようなサイザンス言葉などやめて、もっと健康な娯楽をやれという議論であった」

「しかし、以上のような常識的な議論はそもそもナンセンスである。トニーの子どもが誘拐されたということと、俳優としてのトニーの価値とは全く別個の問題なのである」

 正論と思えるが、当時はこうした声は小さかった。

過去を“捨てた”男

 トニー・谷は世に出るようになってから、自分の経歴をさまざまに語っている。しかし、厳密に言えば、どこまでが本当かどこからがウソか判然としない。

『週刊朝日』の特集によれば、1917(大正6)年10月、東京・日本橋の生まれ。実父は生まれる前に亡くなり、電気器具商をしていたその弟の籍に入った。血のつながりのない父は酒癖が悪く、よく暴力を振るわれた。

 小学校時代は抜群の成績で、旧制中学に入学したが、学問より家業をという父の考えで中退。電機学校に通わされた。実母も死亡したため、家を離れ、日本橋の薬屋の店員に。兵役を挟んでホテルの経理係となり、ここでのちの芸のタネになるソロバンを覚えたという。

 その後の敗戦までの間の経歴がはっきりしないが、召集されて中国大陸に渡っていたらしい。戦後、東京宝塚劇場が占領軍に接収されたアーニー・パイル劇場の事務員に。赤十字クラブにも出入りして、占領軍相手の慰問芸能団編成のあっせんもやった。そこで芸能人とのつながりができたという。舞台のデビューは、来日した大リーグのサンフランシスコ・シールズの歓迎会での司会の代役だった。

 トニー・谷の人間像を語るうえで欠かせないエピソードがある。有名になった後、不在時に訪ねてきた父に後で送った手紙だ。

 かねて申しあげてある通り、「過去のどなた」ともお付き合いはしておりません。たとえ近しい方とも。私が有名にならねば尋ねてもこないのに。重ねて申しあげます。一切お付き合いしません。楽屋への訪問、知り合いといいふらす件、全部お断りします。私の一家、一身上のことは、自分でやりますから。

 強烈な意思表示で、戦友らに対しても同じだった。中には塀に上り、彼の家に向かって「いまに覚えてやがれ!」と怒鳴って去った者もあるという。

 そうしたことから彼の非人情を糾弾し、長男の誘拐に「ざまを見ろ」と感じた人も少なくなかったのかもしれない。“狂言説”が出たように、事件の前から人気は落ちていたともいわれるが、1957年3月30日付夕刊読売に掲載された「長者番付」では、2位の榎本健一をおさえて、「舞台俳優」の第1位=申告所得額736万円(現在の約4300万円)を占めている。