「9月になると、僕は『(少年院を)出てから、誰か捕まえにゃいかんで』と繰り返し言ってました。彼には社会に出てからの相談相手が必要だと思ったんです。でも、『いや、アドバイザーはいりません』と断られました。それで10月になると、『伯父が(出院後の)引取人に決まっちゃって』という話をしてきて、でも、断ろうと思ってると言うんです。彼は『そういう人を置こうとしても、その人を信用できるとは思えない。自分のことを詮索されたくないし、人って必ず裏切ると思うし、僕の中のことを話そうとはとても思えない』と。そこで僕は『でもいま、月に1回こうやって会ってるけど、これがそのモデルなんだよ』と言って……。それは否定されなかったけど、肯定もされなかった。最後までその繰り返しをして、終わりました……」
無念が感じられる口調に、私は「出院直前まで、その繰り返しですか?」と質問した。太田さんは「そうです」とだけ答えた。
願いの込められた紹介状
とはいえ、太田さんは山地が出院するにあたり、医療機関への紹介状を書いていた。そこには宛て名が書かれていなかったが、どこかの医療機関にかかってくれれば、との願いの込められた紹介状だった。現在でこそ少年院から外部の医療機関に繫(つな)ぐ動きはあるが、当時はそうしたことが恒常化されていなかったのだ。
「その点で、具体的な宛て名を書かずに、誰かが面倒を見てくれるだろうと考えたことを悔やんでいます。山地君の症状の場合は、出院後の環境選びに尽きると思うんです。彼の特性を理解したうえで、職業上の援助、環境の調整が必要だった。取材を受けたのも、それにすごい後悔があったからです。なんか、黙ってちゃいけないな、があったからだと思うんですよ……」
太田さんはそう口にすると、柔らかな視線をこちらに向けた。
弁護士への空虚な手紙
山口市にやってきた私は、弁護士の内山新吾さんを訪ねた。彼は山地が実母を殺害した事件での、少年審判の付添人である。
内山さんが山地と出会ったのは、太田さんとの面接が始まる1年以上前のこと。母親殺害で自首した直後だった。そして付添人になって以降、少年院を出たあとも彼のことを気にかけていた。山地が05年に大阪で姉妹を殺害して逮捕されてからは、大阪拘置所に拘置されている山地に手紙を出し、面会に出向くなど、熱心に彼のことを支えようとした。
内山さんに会うのは今回が初めてではない。05年に山地が逮捕された際に、事務所で取材したのだ。そのとき彼は次のように話していた。