「登戸」最大の特徴は…
南武線3兄弟の中で、三男坊の登戸駅はいちばん庶民的な駅だ。南武線と小田急線をつなぐ連絡橋もペデストリアンデッキというほど大きなものではないし、駅の周りの雰囲気もそう。この兄2駅との違いは、東急と小田急の違いによるものなのか、どうなのか。
そしてこの登戸駅の最大の特徴は、多摩川である。3兄弟の中で、いちばん多摩川に近い。駅から歩いて5分とかからない。南武線の北東側の出口を出て階段を降り、ちょっと路地を歩けばもう多摩川だ。小田急線は登戸駅と和泉多摩川駅で多摩川をちょうどサンドしていて、ときおりゆっくりと小田急の電車が多摩川を渡っている。
多摩川の河川敷、小田急線が渡ってゆく橋を眺めていると、その向こう、西側にももうひとつ橋が渡されているのが見えた。ずいぶん立派な橋だ。調べてみると、多摩水道橋というらしい。東京都道・神奈川県道3号線、などというとややこしいが、世田谷通りと津久井道の橋である。この橋を境に東京側を世田谷通り、神奈川側を津久井道と呼ぶのが習わしになっている。
江戸時代から続く“登戸のわたし”
実は、登戸の街の始まりはこの津久井道にある。津久井道は江戸時代、津久井と江戸を結ぶ重要な街道だった。津久井は相模湖のあたり、とでもいえばわかるだろうか。いや、あんな田舎と江戸を結んでどうすんの? と思う向きもあろうか。さにあらず、津久井は関東地方でも指折りの生糸の産地。津久井で生産された絹を江戸の街に運ぶ道、シルクロードが津久井道の役割だった。
登戸は、その津久井道の宿場のひとつだ。橋が架かったのは1953年とだいぶ新しく、それ以前には渡し船が活躍していた。江戸時代から続く津久井道の“登戸のわたし”は明治に入っても続けられ、多摩水道橋が開通したことで役割を終えた。なんでも、多摩川に残った最後の渡し船だったという。
ただ、多摩水道橋が開通するより前から、渡し船を使う人はほとんどいなくなっていたようだ。その理由は、ひとつに下流側に二子橋(二子玉川と溝ノ口を結ぶ)ができたこと。そしてもうひとつに鉄道の開通である。