自身が出走するレースでわざと着順を落とし、高額配当を演出。そのレースの舟券を親戚経由で購入する――。ボートレース界でそんな手法の「八百長事件」が起きていたことが、昨年1月各紙で報じられた。ボートレース界“史上最大の不祥事”とも言えるこの事件は、各所に大きな衝撃を与えた。

 事件の中心人物として逮捕されたのは、全盛期には年間2500万円ほどの賞金を稼いでいた一流選手。だが、彼が捕まったことで、ボートレース界の“闇”がすべて晴れたたわけではなかった。事件後の取材で分かった、競艇界の“八百長のリアル”とは――?(全3回の3回目/#1#2を読む)

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1957年の摘発での証言「宮島競艇は八百長の巣窟」

 競艇界では過去にも八百長で選手が逮捕されたケースがあった。長崎県の大村競艇場で国内初のレースが施行されたのは1952年4月。その後、レース場は増え続け、1956年までに全国24場となったが、直後の1957年に大規模な八百長摘発があった。

 1957年6月、警察庁は全国的な競艇八百長の摘発を実施し、選手20名を含む34人を一斉検挙した。きっかけは、当時22歳の競艇選手が窃盗で広島県警に逮捕されたことである。

 この選手は「宮島競艇は八百長の巣窟」と証言し、選手、整備士、審判員、そして地元の暴力団関係者などで構成される「八百長シンジケート」が浮上した。しかも、そうした不正は宮島競艇(広島県)のみならず、全国の競艇場に広がっていた。巷間伝えられてきた「ギャンブルに不正はつきもの」という説は真実であることがはっきり証明された瞬間だった。

「競艇の父」笹川良一は1957年の八百長事件発覚の際「どうしても時々大掃除してもらう必要がありますね」と語っていた 
©️共同通信社

競走会の煮え切らない対応

 1957年の大量摘発以降、西川事件が起きるまでの間、艇界においては明確な八百長が刑事事件に発展したケースはなかった。だが西川と増川のLINEを見る限り、その間、一切不正がなかったと信じるのは難しい。

 ここで問題にしたいのは業界、具体的には競走会の対応である。

 西川事件を受け、どこまで本気で調査を行ない、不正の実態を明らかにしようとする努力をしたのか。その痕跡が外側からはまったく見えない。

 西川が逮捕された後、なぜ西川本人に他の八百長選手に関する聞き取り調査しなかったのか。西川は自ら八百長選手の実名を明かさなかったが、その一方で「公の場で話せというならいつでも話す」と自著で語っており、決して黙秘を決め込んでいたわけではない。「捜査中」を理由にメディアの質問から逃げ回っていた競走会の姿勢は、追い詰められた日本の政治家が言い訳する姿とオーバーラップする。