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四冠のチャンスがどれほどあったのか

 まず、前述の三冠達成者かつ四冠未達成者のうち、藤井以外の4名に四冠のチャンスがどれほどあったのかを見ていく。初の三冠王だった升田は、上記でも触れたように三冠達成がすなわち全冠制覇なので、当然ながらその当時に四冠のチャンスはない。四冠目の王位戦ができたのは三冠達成の3年後だが、すでに時代は升田・大山時代から大山の一強時代に移り変わっていた。

 森内が三冠を達成したのは2004年の名人戦で、当時の獲得タイトルは竜王、王将、名人(獲得順)。いずれもライバルの羽生から奪ったものである。この結果、羽生は王座の一冠までに追い込まれた。羽生のタイトルが1つまで減るのは13年ぶりのことであった。三冠達成の勢いのまま、森内は名人戦の直後に行われた棋聖戦でも挑戦権を獲得する。だが、もう一人のライバルである佐藤に0勝3敗で敗れた。そして同年の王座戦でも羽生に挑戦するが、こちらも1勝3敗で奪取ならず。これ以降、森内の四冠チャンスは訪れていない。

森内俊之九段 ©文藝春秋

 渡辺が初めて四冠獲りに挑んだのは2013年の棋聖戦。当時、竜王・棋王・王将を持つ渡辺が羽生に挑戦したシリーズで、この時の羽生は棋聖の外に王位と王座を併せ持っていた。将棋界初の「三冠対決」として話題になったが、この時は羽生が棋聖を防衛、三冠を堅持した。

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 2度目は、2020年の第78期名人戦でもチャンスがあった。渡辺は、棋王・王将・棋聖を保持した状態で名人挑戦を決めた。しかし、コロナ禍により変則的なスケジュールだったため、4勝2敗で名人を獲得したものの先に棋聖を失冠して、四冠は“幻”となってしまった(例年通りの日程であれば、名人戦が先に終わっていた)。

 3度目のチャンスは今年の棋聖戦だったが、藤井に敗れて四冠ならず。とはいえ、現在も名人・棋王・王将の三冠を確保しているので、藤井を除けばもっとも四冠に近い存在と言える。

 豊島は2019年に名人を奪取して、王位と棋聖を併せ持つ三冠となったが、いずれのタイトルも防衛に失敗し、四冠への挑戦には至らなかった。現在は竜王の一冠のみだが、間もなく始まる防衛戦で藤井をたたくことに成功すれば、それを足掛かりに再び複数冠への道を開ける可能性は十分にあるだろう。

渡辺明名人は、棋聖戦で四冠チャレンジに挑んだが、奪取ならず 写真提供:日本将棋連盟

全タイトル戦連続登場50期という大記録

 では5名の四冠達成者についてはどうか。それぞれ達成順にみていこう。

 大山が四冠になったのは1960年。4つ目のタイトルである王位戦が創設された年で、すでにあった名人、九段、王将の三冠を確保しつつ、新設タイトルも獲得した。その後1962年に創設された棋聖戦も合わせて五冠王へ。四冠以上を持っていた期間は連続8年となるが、この間に全タイトル戦連続登場50期という大記録を達成している。

 中原は1973年の王位戦で内藤國雄九段を破り、名人、十段、王将と合わせての四冠達成。この時は直後の十段戦で大山に敗れたが、他のタイトルを全部キープしたまま翌74年の十段戦で大山から十段を奪い返し四冠復帰。以降もタイトルの移り変わりはあったが、5年間は四冠をキープした。この間には大山に続く2人目の五冠達成者となり、また奪取には至らなかったが六冠への挑戦もあった。

中原誠十六世名人 ©文藝春秋

 その中原の宿命のライバルともいうべき米長は、1985年に中原から十段を奪い、棋王・王将・棋聖と合わせて四冠を達成。「世界一将棋が強い男」とも呼ばれた。そして十段戦とほぼ並行する形で行われていた棋聖戦(当時は年2期制)では中村修九段を下して、通算5期目の棋聖を獲得し、永世棋聖の資格を得ている。

 ただこの直後の王将戦と棋王戦ではいずれも失冠し、二冠へ後退。それでも十段戦では中原のリベンジマッチを受けて4勝3敗で辛くも防衛。後に米長は自著で「あのときの十段戦ほど全精力を傾けて対局をしたことはない」とまで振り返っている。