臨床心理士からみた「霊的治療文化」
夜が明けて、この本を読み終わる頃には、私は変わっていた。世界がまるで違ったように見えるようになっていたのだ。
この本を読む前の私は臨床心理学を深く信奉する共同体の下級構成員だったから、ユタや占いのような霊的治療文化を「遠い他者」だと思っていた。自分の想像力では届かないところで活動している歴史的な「何か」、そういう風に思っていた。だけど、朝が来たときには変わっていた。彼らは親戚だった。人間が病み、癒されることについて、人間は様々なやり方で介入してきた。心理士も、医者も、看護師も、ケースワーカーも、そしてユタも占い師も、そういう系譜を生業とした一族なのだと私は痛感していた。
それだけじゃない。その朝の私には、自分自身が、そして自分が属する臨床心理学という文化が「遠い他者」のように見えていた。
クラインマンのこの本が素晴らしいのはここだ。彼の関心はエキゾチックなものではない。つまり、見知らぬ土地の物珍しい治療を理解するために、彼の理論は作られていない。その後の『病いの語り』や『精神医学を再考する』がそうであるように、彼は生物学的精神医学や心理療法という西洋由来の治療を批判し、その独善性を解毒するために理論を語っている。
目から鱗のようなものが落ちる。すると、あまりに当たり前のものであり、自明のものであった臨床心理学が、その日を境にある種の「宗教」や「教団」のように見えるようになる。
これはいったい何なんだ? 俺はいったい何をしているんだ?
この問いに答えるために、私は本を書いてきた。『野の医者は笑う』『日本のありふれた心理療法』『居るのはつらいよ』『心はどこへ消えた?』。これらはいずれも、『臨床人類学』の変奏曲に他ならない。すべての元ネタはこの本にある。クラインマンが描いた臨床の宇宙。そこに含まれてはいるけれど、片隅であるからはっきりとは描かれてはいないものについて、私はこれまで書き続けてきたし、これからも書き続けていくのだと思う。
人間のための臨床
人間は生きていれば必ず病む。そのとき、必ず癒しを求める。
だから、社会とか文化にはかならず「臨床」という装置が備わっている。そのとき、医者も、ユタも、占い師も、マッサージ師も、養護教諭も、心理士も、みんな親戚だ。いや、近しい人の看病をしているときのあなただって同じだ。
クラインマンはそういう営みを、太古から続き、人類が生存している限りずっと続いていく、人間的営みとして描く。人間が病み、癒されることを、人間が生きることそのものとして描く。
あまりに専門化してしまい、人間を失いかけている現代の臨床に、人間のための知を取り戻す。『臨床人類学』はそういう本だと思うのだ。