そういう土地で臨床をしているわけだから、私も必然的に霊的文化に親しむようになった。クライエントの中にはユタに通っている人もいたし、何か起こると神様のせいだよと語る人もいた。心理士的にはすんなりと飲み込めないところもあったのだけど、彼らの話を聴いていると、とてもナチュラルだったから、「そういうことなのかもしれない」と思うようになっていた。
だから、私はシャーマニズム関係の本を片っ端から読み漁ることになった。霊的な病いや癒しについて、自分がやっている心理学的な治療とどう違って、どう同じなのかを切実に考えざるをえなかったのだ。
そんなある日、『臨床人類学』と出会った。緑の表紙の分厚い本だった。授業の後に、図書館でその本を借りて、いつものように国道沿いのラーメン屋で昼食をとった。家に帰って本を開くと、すぐに眠たくなって、昼寝をした。いつも通りの土曜日の、いつもの幸福な時間だ。だけど、目覚めてからはいつもと違った。私はその日、徹夜をした。本を閉じることができなくなってしまったのだ。
人が病み、そして癒されることを理論化する
クラインマンの著作と言えば、『病いの語り』が有名で、大学院生時代に一度は読んだことがあったのだが、ケアの重要さを説く論旨は、あまりにヒューマニズムっぽい話のように思えて、その時はうまく出会えなかった。だけど、沖縄で臨床経験を積んだその時には、機は熟していた。
この本の冒頭、台湾は龍山地区の風景が描かれる。西洋医、中国医、薬局が並ぶ地域に、タンキ―と呼ばれるシャーマンが活躍する寺院があり、占い師がいる。さらには健康食品やお守りを売る屋台が並んでいる。人々がさまざまな治療を売り買いする喧噪は、そのまま沖縄の風景であったし、そういう目で見れば東京だって大阪だって、あなたの住んでいる街だって同じはずだ。日々の通勤電車を見回してほしい。至る所に癒しのための広告が並んでいるではないか。
クラインマンのこの著作は、そういう雑多な癒しのどれかに肩入れするのではなく、クールな分析を行う。タンキ―が独自の価値観を持っているのと同じように、生物医学も心理療法も独自の価値観を持っている。そういう地点から、人が病み、そして癒されることについて、理論化を行っていく。
民間セクター、専門職セクター、民俗セクターを分別するヘルス・ケア・システム理論。治療者と患者のコミュニケーションを読み解くための説明モデル理論。「病い」と「疾患」、「癒し」と「治療」の区別。社会構造が病むことと癒すことを規定すること。
この本には「臨床」という営みを理解するための人類学的なアイディアが詰まっている。キラキラと輝く道具箱のようなのだ。