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「奈落に突き落とされたようなものでした」小池真理子、夫・藤田宜永の死を語る

2021/11/21
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元気でも翌日は鬱状態

小池 まだまともに仕事ができる状態ではなかったので、返事は保留にしてもらったんですけど、時間がたつにつれて、書いてもいいかなと思うようになりました。死別後2年、3年たって書くものと、直後に書くものは、たぶん全然違ってくる。言葉にならない思いを必死に紡ごうとする熱情みたいなものが、数年たつと少しずつ薄れて、よくも悪くも、まなざしが客観的、冷静になっていく。今しか書けないことがあるし、理屈では語りきれないものを言葉にすることで、自分を救えるかもしれない、という気持ちが強かったです。

 連載を書くにあたっての、企みみたいなものは何もありませんでした。喪失の悲しみの乗り越え方を書くつもりなんか毛頭なかったし、そういう方法論には初めから、全然興味がなかった。強い悲嘆の感情はハウツーでごまかせるものではないと思っていたからです。ストック原稿を作らずに、毎週、その時々の自分の思いや、2人で辿った道のり、長年暮らした軽井沢の風景を、リアルタイムで、散文詩のように書いていこうと思いました。

生前の藤田宜永さんと談笑する小池真理子さん

 毎日、気持ちが変わるんです。今日はちょっと元気だなと思っても、次の日はほとんど鬱病じゃないかという感じになったりもします。日ごと夜ごと刻々と変わっていく感情を持て余す自分のことも、記憶が束になって押し寄せてくる時の感覚も、散文詩の中になら、正直に表現することができそうだと思いました。

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——書くことで、ご自身の気持ちが癒やされる面はありましたか。

小池 もちろん癒やされました。書いている時が一番、気持ちが落ち着いていたと思います。コロナの感染が広がって、それまでとは生活がガラリと変わったでしょう。もし、このパンデミックが起こらなかったら、親しい編集者や仲間たちと会って、藤田の思い出話をしたり、独りで旅に出たりすることで、ある程度は気持ちにめりはりをつけられたかもしれません。

 でも、そういうことがまったくできなくなってしまいましたから。案じてくれる人と交わすメールや電話、手紙のやりとりがせいぜいで、何日間にもわたって、誰にも会わずにいたこともあります。心底、孤独でした。書くことでしか自分を支えることができませんでした。