終戦直後、「ヤミ金融」として台頭した「光クラブ」。“学生社長”として東大法学部に在籍した山崎晃嗣社長を中心に拡大を続けたが、資金難で行き詰まり、社長は手記を残して亡くなった。残された手記を、当時の新聞はどう報じていたのか。そしてそこから見えてきた「学生社長」の実像とは――。

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「債権者が約束手形を持って泣きついてこようと、私が意識しない以上、一切無だ」

 同じ日付の読売はだいぶ重点の置き方が違って、山崎が「知人に託した」という「手記」がほとんどを占めている。題名は「高利貸となりえざりし辨(弁)明」。少し後の「週刊朝日」12月11日号には同じ題名で「学生高利貸の遺書」の全文が載るが、それの要約のようだ。だが、どこから入手し、誰が要約したのか――。適宜抜粋する。

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山崎の手記を載せた読売

 1949年11月21日午後8時10分より湯舟に漬かりながら考えた。1カ月近く入らなかった湯に入ろうと思う心が高まって、横着な身体を銭湯―浅草・松竹館の向こうの“ガラス湯”まで運んだのは、まさしく3日後に死のうと思う心があるからだ。

 私の唯心論の立場からすれば、意識があるからこそ存在がある。私が死んだときは意識が消滅するから、同時に全宇宙が消滅する。債権者が約束手形を持って泣きついてこようと、私の死体が汚かろうと、私が意識しない以上、一切無だ。無に対し努力することはあり得ない。とすれば、私がフロに入ってさっぱりと清潔に死にたいのは、生の極限時においてさっぱりと清潔でありたいからだったのだ。

 生の極限時に清潔であることは、その後の変化を私が意識せず無である以上、永久に清潔であることになる。これが私の死生観の根本であり、私の死のうとする直接の原因であるからだ。私がどうしてこんな死生観を持つに至ったのか、そして、なぜ高利貸しに最後までなり得なかったのか。それを振り返ってみたい。

日々の日記で24時間を分類、「合計何百時間を受験のため損したかを計算」

 「手記」は「古い日記帳をひっくり返してみて」彼のそれまでの軌跡に入っていく。

 私は(昭和)18(1943)年、学徒動員で出征することになっていた。どうせ兵隊にとられるなら、なるべく楽なところと思って法務部委託学生になろうと受験勉強をした。一高時代から1日15~16時間、一切ほかのことを考えず法律の勉強をする癖をつけていた。私ははじめ、法律によって一切を割り切って生活していこうと数量刑法学―とも言うべき1つの体系をつくろうとした。1人が殺人罪を犯したとき継母にいじめられていたときはマイナス何点、月収いくらならプラス何点と、その動機の分類表に当てはめて殺人罪の平均刑罰から引くという構想である。これが完成すれば、建築技師が対数表を頼って設計するように、裁判官はこの刑罰数量表によって合理的に判決できるというものだ。これを専攻しようと1つの生活体系をつくっていたのが、戦争という出来事によって乱された。