山崎の“怒り”
山崎は手記とされる「私は偽悪者」で軍隊の体験を書いている。「終戦当時、私は陸軍主計少尉に任官。旭川の北部第一七八部隊糧秣委員をしていたが、日ごろ勅諭だとか戦陣訓ばりのセリフで尽忠精神を説いていた軍人将校は、ポツダム宣言受諾と同時に赤裸々な人間にかえった」。
隊長、参謀は蔵から米、砂糖、パン、乾パン類を出し、トラックと乗用車に食糧、毛布、器材などを満載して消えた。山崎は上官の命令で残った糧食を隠したが、運送屋の密告で検挙され、懲役1年半、執行猶予3年の有罪判決。糧食は別の上官が既に処分していた。
保阪正康「真説光クラブ事件」(2004年)は、それまでの「光クラブ」「山崎晃嗣」のイメージを一変させる労作。保阪氏は唐木の指摘に関して「やはり、山崎は何かに激しい怒りを示し、その表現の方法が分からずに極端な演技を示したといえるのだ」と書く。「山崎は何かに『怒り』を持っていた。それは歴史上で俯瞰すれば、『戦争という時代』に、そして一個人とすれば、自らの環境そのものにもつ怒りだったといえるかもしれない」とも。
軍隊で起こった上官からの不条理…「僕をこんなふうにしたのは誰だ」
さらに同書は山崎の幼なじみの証言から、山崎も書き残していない、もう一つの決定的な出来事をえぐり出す。それは経理部幹部候補生として神奈川県・溝の口の教育隊にいた1944年2~10月のまだ寒いころだったと思われる。
同じ隊に山崎と一高、東大を通じた友人がいた。隊は上官による私的制裁がひどかったが、あるとき、山崎とその友人ら5、6人が制裁を受けていた時、上官に「風呂に入れ」と命令された。一斉に風呂に飛び込んだがそれは水風呂で、友人は心臓マヒを起こして死亡した。
山崎は上官の命令で、遺体を病院に運ばされるなど死の隠蔽をさせられた。山崎は幼なじみに怒気を含んで語ったという。「真説光クラブ事件」は書く。
「山崎は誰かに啖呵を切りたかったのだ。『僕をこんなふうにしたのは誰だ。そういう連中に、汚濁の中でこそ自分は他の誰もが行ったことのないことを示して見せる。その気持ちは、どれほど親しい友人にだってわかるものか』という切り口上だったように私には思える」
山崎は1944年11月の友人への手紙の中で「国家は最高の悪である。虚偽は最大の善である」と書いている。「真説光クラブ事件」は、1949年当時にメディアで伝えられた山崎晃嗣の姿は虚像ではなかったかと問い、「アプレの代表」「合理主義」などといったイメージは彼自身が意識して作り上げたものだと指摘している。「人生は劇場だ」という言葉通り、彼は演技をしたのだとも。
一方で、彼の心の底にたぎっていたマグマが戦争の時代への怒りだったとしたら、どこか救いのようなものを感じるのは確かだ。それは、そう考えることで彼の中に人間を感じられるからだろう。そう理解しようとすること自体が古いと言われるかもしれないが。その後、彼との類似や共通点を指摘された人たちにはそうした何かがあったのだろうか?
【参考文献】
▽山崎晃嗣「私は偽悪者」 青年書房 1950年
▽山崎晃嗣「私は天才であり超人である―光クラブ社長山崎晃嗣の手記―」 文化社 1949年
▽三枝佐枝子「女性編集者」 筑摩書房 1967年
▽三島由紀夫「青の時代」 新潮社 1950年
▽唐木順三「自殺について 日本の断層と重層」 弘文堂 1950年
▽保阪正康「真説光クラブ事件」 角川書店 2004年
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生々しいほどの強烈な事件、それを競い合って報道する新聞・雑誌、狂乱していく社会……。大正から昭和に入るころ、犯罪は現代と比べてひとつひとつが強烈な存在感を放っていました。
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