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連載昭和事件史

「女は道具だ」「いつも同時に女性たちと…」“ヒーロー”から転落した現役東大“ヤミ金”社長の知られざる実像

「女は道具だ」「いつも同時に女性たちと…」“ヒーロー”から転落した現役東大“ヤミ金”社長の知られざる実像

「光クラブ」事件 #2

2021/11/21
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最後の言葉は「今夜は忙しいから社に泊まる」

 作家の太宰治は前年1948年の6月、女性と玉川上水で心中死していた。この1949年11月26日付朝刊には、毎日以外のほぼ全紙に自殺現場となった社長室の山崎の机周辺の写真が掲載されている。その描写が読売の記事にある。「香をたき込め、机上には半身大の額縁入りの自分の写真を飾り、卓上に死の直前まで書き続けた遺書が便箋5枚にしたためてあった」。

写真と遺書が置かれた山崎の机(「画報現代史戦後の世界と日本第7集」より)

 日本経済新聞には、戦後数々の事件に名前が登場した金融業者、森脇将光の「“自分の腕前を過信”」が見出しの談話が載っている。1948年に友人の紹介で、山崎らと銀座の料理店で会ったという。

「彼は自分の腕を過信の態で『金というものがなくてはこの世はダメだ。人生は蓄財を豊富にすることだ』と漏らしていた。私は『事業はウサギとカメの競走だ。あなたは若いのだから、カメの行き方でいかなくてはいけない』と忠告したが、1、2年の経験などでこの商売がやれるはずはない。彼は金融業の実体を理解しなかった。資金の守り神の心境で当たらなくてはダメだ。別れの時、私は彼らの近い将来の破局を思い、零細な投資者の運命を思い、暗澹たるものがあった」

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「だが、金もうけも、つまりは自己の生命を温存するためだ。その貴重な生命を投げうって全てを清算したことは大いに褒めてやってよろしい」

 山崎は女性関係も話題になったが、日経と東京新聞には内妻(22)の話が出ている。日経によれば、自殺前夜は「今夜は忙しいから社に泊まる」と言い残したのが最後の言葉だったという。「『やっぱりそうでしたか……』と既にきょうあるを覚悟していたか、涙一つ見せず……」と書いている。

「女は道具だ」4年間に8人の女性と…

 ところが、翌11月27日付読売には「四年の女色遍歴 学生社長、秘書には失恋」の記事が実名、6人の顔写真入りで掲載された。「彼の活動の中心であった金融関係とは別に、その“女性遍歴”のあとを探ると、ここにもアプレゲールの一典型としての女性観が鮮烈に浮かび上がってくるのである」と、記事は「アプレ」のレッテルにこだわっている。

山崎の女性遍歴を取り上げた読売

「彼は学生時代真面目で、初めて女を知ったのは見習士官で終戦時、旭川連隊にいたときだが、以後の4年間ににわかに8人の女性と交渉を持った」

 記事によれば、最初の女性は10歳年上で1946年春に知り合い、関係を続けつつ1947年3月ごろには、行きずりで知り合った22歳と約半年交際。同じ時期に家出した娘を友人に紹介されて約半年付き合ったという。

 中野で高利貸しを始めて羽振りがよくなり、新宿のバーに出入りして2人の女給とも交渉があった。記事は山崎が日記に書いたという言葉を記している。「大体高貴な精神より生ずる恋愛などというたわごとは誰が考え出したのだろう。恋愛は無限の高みへの向上の心ではない。一定の固定した対象への堕落だけだ」。山崎は「女は単なる道具だ」と放言していたとも。

山崎の女性遍歴は各新聞で騒がれた(読売)

 だが、「光クラブ」が銀座に進出後、初めて雇った秘書(22)にはかつてない恋愛感情を抱き「人並みの真実を示したようだ」という。その間にも、新聞が「内妻」と書いた女性や、検挙後に差し入れに来た秘書志望の女性(24)にも「家を与えて囲い者とした」。「いつも同時に2人ないし3人の女性と交渉を持っていた」と記事にはある。