ここから彼独自のユニークな生活体系の説明が進められる。
私は生活体系を維持するため、日記を数字で表すことにしていた。24時間を「用務」(睡眠、食事、入浴……)のほか、第1類(サブノート作成など本来の勉強)、第2類(受験科目)、浪費(新聞、小説、友人との会話)に分け、明細に書き、合計何百時間を受験のため損したかを計算。その分、見習士官になって取り返す計画を立ててから、やっと落ち着いて勉強ができた。私はなぜ法律を勉強したか。法律は一番理論的であるからである。私にとって人間は傲慢、邪悪、矛盾である。
恐るべき合理主義に思える。さらに「全ての友人共同経営者に裏切られた」が「人間はもともと邪悪なのだから裏切るのが当然で、怒ることはない。むしろ、どれだけ裏切れるか、また私はどれだけ対抗できるか、私の能力の限界を認識するため人を雇った」「私は他人とは違い最も理論的であり、理論的に割り切れなければ生きていけない自分を知っているから合理主義によっている」と述懐。「光クラブ」について次のように述べた。
「私の才能をもってすれば、バカな債権者どもをだますのはわけはない」
「マキャベリズムでいけば光クラブはまだやっていけた。私の才能をもってすれば、バカな債権者どもをだますのはわけはない。金づまりのご時世に株や現金を持っていながら、それでどうしてもうけていいか分からず、資産の運営を光クラブに任した債権者、10日1割の高利で借りれば払えぬと知りながら、ほかにどうにもできなくて借りに来る債務者……」。「こんな“置き役様”の連中だから」、債務の返済の延期も可能だが、と述べながら、彼独特の論理で手記を締めくくる。
私の合理主義をもってすれば、人間と人間の関係は「パクタ・スント・セルバンダ(合意は拘束せらるべし)」という国際法の根本原則で割り切れる。支払うことを合意して契約した以上、私は債務を履行すべく拘束されている。この拘束を免除するのは事情変更の原則だけである。
私は12月5日の期限を重視した。所要の300万円の利子は払えぬが、その半額なら払える見込みがあった。しかし、私は契約を完全に実施しなければならぬと思った。
契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。私は私の理論的統一のために死ぬ。この見解を明らかにするため、私は最後の日まで平常通り雑務処理するつもりだ。酒に酔い、女に戯れ、疲れ切ったことを踏み台として太宰治のように死ぬのではない。私は、ファウストの言葉のように地獄の果てまで遍歴しようと思っていたが、これは私の能力がどこまであるか、体認してみたかったまでである。