「私の恋愛した女性は…」
11月27日付東京にはその秘書だった女性が匿名で登場。山崎から一方的に迫られたと証言した。ところが――。
「婦人公論」1950年1月号には、「自殺の数日前に」山崎が、作家の丹羽文雄の司会で、産婦人科医の芥川賞作家で同年代の小谷剛と対談した記事が載った。そこで山崎はバカ丁寧な言葉遣いながら、雑誌で明らかにされることを承知でこの女性について赤裸々に語っている。
「私の恋愛した女性は、私と肉体関係をした翌日、他の男とまた関係していたんです。非常に驚いたことには、私の知っている範囲では、良家のお嬢さんで教養もあり、態度も上品で純真そのものであって、私のところに来る新聞記者諸君ですら、あれは処女だろうと断定するくらいの女性が、実は流産を数回もした……」
「私は偽悪者」は「内妻」が編者となっている山崎の手記とされるが、それぞれの女性との関係がさらに詳しく書かれている。それによれば、この秘書の「他の男」とは現職の京橋税務署員で、彼女を通じて「光クラブ」の情報が税務当局に漏れ、検挙に結びついたという、ウソのような本当の話になっている。
「いつ死んでもよいという気持ちを持っていないと……」
山崎の死後、事務所に債権者が押し掛けた。「債権者が“緊急総会” 応接にベソかく学生社員」(11月27日付毎日見出し)、「破産か再建か 腹の探り合い 光クラブ三木専務と債権者」(同日付日経見出し)、「四百の嘆き顔 学生社長の死に押かけた投資者」(同日付時事新報見出し)。しかし、“独裁者”がいなくなってしまえば、後はどうすることもできなかった。
山崎名義の本のもう1冊は、自殺直後の1949年12月に刊行された「私は天才であり超人である―光クラブ社長山崎晃嗣の手記―」。戦前からの日記や手紙などをまとめた“緊急出版”と思われるが、この中には、読売の手記にある生活体系を数表にしたものが収められている。例としてある年の「8月8日」は――。
「(午前)0時から6時半まで睡眠 390分」「新聞・朝食・反省・掃除・体操 100分」「8時40分まで雑務 30分」「日記・統計・記述準備 60分」などと書かれ、その後、午後にかけて「原稿書き」「用談」などがあり、「ダンス」「夕食・入浴等雑務」などに続く。
「22時 時子来たり用談 30分」「22時30分 弓子来たりともに外出 70分」「23時40分 弓子とたわむれ情交 80分」などとある。それぞれの項目には「投資・取り引きの実際行為」「〃 の準備行為」「用務・体操・ダンス教室」「女性関係 有意義に過ごした時間」「〃 浪費」などを示すマークが付けられている。「有意義な時間」と「浪費」などの1日分を集計した表も作っていた。
「婦人公論」の対談で山崎は「合意によるものは拘束さるべし」以外の道徳は一切守らないと断言。こう語っている。「いつ死んでもよいという気持ちを持っていないとできないだろうと思います」「1日でもそういうものを忘れたら、怖くて生きておられませんね」。