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 国家地方警察本部長官を務めた斎藤昇は、山梨県知事から内務次官に転任した時のことを著書「随想十年」で書いている。「GHQの関係部局に挨拶回りに行った。その時、GSの有力な某大佐が私にこんなことを言った。『どうも最近、警視庁の警察官がわれわれ駐留軍の軍人の女友達やその身辺を調べているという風評がある。もしこれが事実だとすれば誠にけしからぬことだと思う』」。

 斎藤は「そんなことをしているとは考えられない」と答え、警保局長にも聞いたが「知らない」ということだった。ところが約1カ月たって、また大佐が「私の女友達の友人数人のところに警視庁の警察官が調査に来た事実がある」と言って、警察官が置いていった名刺を突きつけた。

 調べてみると、内務省の調査局長が警視庁警務部長に依頼して調べさせたことが分かった。「GHQのG2に友人を多く持っている吉田内閣の某要人S氏がG2と一緒になってこの某大佐を日本から去らしめようとする策謀が計画されたという」(同書)。

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2人の「その後」

ケーディスの帰国を報じる読売

 2人はお互いに離婚して結婚することも考えたという。しかし、ケーディスはアメリカで日本人蔑視の空気が根強いことを指摘。「日本にいた方がいい」と言った。鶴代も「前途有望な彼の未来を私との恋愛や結婚のために難しいものにしてはならない」と考えた。「マッカーサーの幕僚が華族の夫人を連れて帰国したなどということは困るという、マッカーサーの忠告もあったらしい」と自伝にはある。

 そのころ、アメリカからケーディスの妻が来日。日本で鶴代とのことを吹き込まれて体調を崩して予定を早めて帰国した。そしてケーディスも1948年12月、日本を離れた。鶴代とのスキャンダルや収賄の疑いで解任されたといううわさも立ったが、“敵”であるウイロビーG2部長の回顧録によれば、ワシントン側からGSの対日政策に対する突き上げと政策転換を求める干渉が強まったことから、説得のために出張したのだという。

 しかし、ペンタゴンの姿勢は強硬で、主張は入れられず、日本に帰任しないまま、翌1949年5月、退役。その後は弁護士として活躍した。当時の妻とは離婚。以後2回結婚した。来日もし、積極的に憲法制定に関する発言を続け、1996年、90歳で死去した。

晩年のケーディス(「文藝春秋」より)

 鶴代は1949年6月、夫敬光に先立たれたが、銀座のバーのマダムやいくつかの会社の渉外担当として働き続けた。その間、妻子ある実業家の男性と「3度目の恋」に落ちたが、財閥の一族だった男性は国会議員となり、1968年6月に病死。約17年間の恋は実らないままとなった。それからは長男の病死に遭い、自身もがんに侵されるなどしながらも一人暮らしを続けた。