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ひそかに広がったケーディスの悪評

 同書は、1948年7月にニューヨークタイムズに掲載された記事中の橋本の発言を紹介している。

「日本の自由主義者と親米家を片っ端から追放しつつ、共産主義者を支持するがために、あらゆる横暴非道と人権蹂躙とを傍若無人に敢行しつつある民政局の人たちは、一体何を考え、何を企てているのでありましょう。私たちは民政局のホイットニー氏やケーディス氏などのなしつつあるところを見ていますと、この人たちは共産主義者やそのシンパか、あるいはソ連の第五列ではないかと疑いたくなるのであります」

「第五列」とはスペイン戦争の際にいわれたのが語源。「スパイ」「裏切り者」の意味で戦中に使われた。こうしたケーディスらに対する悪評は、占領下では表面に出なかったが、ひそかに伝えられ広がった。鶴代も、ケーディスらが「共産党がかったピンクの軍人」と見られていたと書いている。

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 戦後の対談でも岩淵辰雄は「しかし、あのころはね、GSのケーディスはワンマンでしたよ」と発言。鶴代は、「GSの大部屋の責任は全部自分が持たなければ」というケーディスの言葉を使って弁護しつつ「ワンマンということも言えるかもしれませんね」と答えている。

 しかし、当然ながら、座談会でも自伝でも、彼女はケーディスを常にかばっている。特に「私の一番好きなのは彼のヒューマニズムざんすね」と言っている。彼の両親はフランスからアメリカ東部に移住したユダヤ人で、彼はナチスドイツに虐殺されたユダヤ人の写真を常に持っていたという。

不倫スキャンダルから疑獄の「妖花」へ…

 子爵夫人とGHQ高官の不倫は大変なスキャンダルだが、公然の秘密でも、占領下では新聞も雑誌も記事にするわけにはいかなかった。鳥尾鶴代の名前が取り沙汰されたのはやはり昭電疑獄のときだろう。事件をめぐる女性の1人として登場。「妖花」などと呼ばれた。舞台は当時彼女がマネジャーをしていた東京・東銀座の洋装店。

銀座のバーのマダムをしていたころの鶴代(「私の足音が聞える」より)

 雑誌や冊子には、匿名の場合を含めて真偽定かでない情報が載った。例えば、雑誌「面白俱楽部」1948年12月号の「風雲楼山人」名義の「昭電疑獄夜話 日野原陰謀をえぐる」にはこう書かれている。

「楢橋が(内閣)書記官長時代、楢橋(の)カゲの人として一躍嬌名をうたわれた、元華族出で社交界の花形、これまた英語のうまいT夫人が、社交に名を借り、学習院時代の不良三羽烏・某々夫人らと、銀座のKレストランを根城にいろんな方面に渡りをつけていた」

 いかにもいいかげんなゴシップのようだが、松本清張監修「明治百年100大事件」の「昭電疑獄」の項も「民政局次長のケーディスは、銀座で洋装店を開いていた鳥尾元子爵夫人との仲をウワサされていたが、秀駒はこの洋装店によく姿を見せていた。秀駒―鳥尾夫人の仲が、日野原―ケーディスを結び付けたのである」と記す。