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 確かに「日本国憲法を生んだ密室の九日間」も「民政局員の人たちは口をそろえて、当時のケーディス大佐は才気煥発の切れ者だったと言う」「人当たりがよく社交家」「悪口を言う人は一人もいない。写真で見る通りの男前で、加えて親切とあれば、日本の社交界の女性が放っておくはずもなく、いくつかの有名なエピソードもある」と書いている。鶴代とのことを指しているのだろうか。

 作家・吉屋信子は「文藝春秋」1964年10月号の「鳥尾多江夫人の脱出」で鶴代との親交を語る中で「GHQの淀君という誇張された評判のあった」という形容詞を使っている。

半ば公然の関係に

「彼と私は本当に愛し合っていた。それ以上に尊敬し合っていた。お互いに周りの人に迷惑を掛けないように、しかし、熱烈に愛し合っていた」。彼女はそう書いた自伝の章に「ケーディス―第二の恋」とタイトルを付けている。

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「ケーディスと私はよく軽井沢の別荘へ行った。彼の仕事を終わるのを待って軽井沢までジープをすっ飛ばす。たいてい夜の8時か9時くらいまで仕事をする人なので、出発は遅くなったが、ウイークエンドはできる限り行くことにしていた」。自伝には、別荘の番地がGS内部で新語になっていたと書いているから、半ば公然の関係になっていたのだろう。

“マッカーサーに次ぐ権力者”になったケーディス

 ケーディスは、徹底した民主化を進め、財閥解体や公職追放なども主導。占領下日本で実質的にマッカーサー元帥に次ぐ権力者となった。吉田茂首相就任に対抗した首班工作を練るなどしたため、吉田ら保守派から憎まれたうえ、GHQ内部で諜報部門を担当する参謀第2部(G2)のウイロビー部長らからも敵視された。

ケーディスと敵対したウイロビー部長 ©文藝春秋

 公職追放ではポツダム宣言に基づいて軍国主義者、国家主義者から戦時中の主要な政治家、財界人、言論報道機関の役員らまで、2回にわたって計2万人近くが公職から追放された。判断基準があいまいとされ、反発や不満は根強かった。

 古くから政治活動に参加していた評論家で戦後は佐藤栄作(のち首相)の私的相談役でもあった橋本徹馬は、独立後の1952年に出版した「占領治下の闘い」で口を極めてケーディスを非難している。

「マ元帥の絶対信任があって、しかも頭の働かぬホイットニー局長を巧みに操りながら、司令部民政局あるいは最高司令官の名において横暴の限りを尽くしたのが実にこのケーディス次長であった。彼の権威は無上であって、この人の言には日本の官界を挙げて絶対服従であった。たとえこの人の愛人であった鳥尾元子爵夫人が禁制品を売る店を造ろうが」「誰もいかんともすることができないありさまであった」。