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5歳の子供であろうと、80歳の老人であろうと、同じように話す

――「がん哲学外来」は、誰が来てもいい場所だそうですが、がんの患者さんや、その家族、友人の他に、どんな方が来るんですか。

樋野 さまざまな職種の医療従事者や、うつなど精神的に病んでしまった人、職場や親族との人間関係に疲れてしまった人。あと、将来的な備えとして聞いておきたいという人や、哲学として先人たちのことを学びたいという人もいます。それと、時々、不登校の子供を連れた親が一緒に来ることもあるよ。

――本当に幅広いんですね。年代的にもそうですか。

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樋野 年齢も10代から90代までいろいろだね。私は、5歳の子供であろうと、80歳の老人であろうと、同じように話すんですよ。小学校で依頼されて講演する時も、大人と同じスライドを使うんです。子供たちは、ほとんどわかってないんだよ。だけどもよく聞いてる。わけがわかんないのがいいんだね。

 

――何か断片が心に残ればいいということですね。先生ご自身も、幼い頃、そんなご経験がありますか。

樋野 私は島根県の出雲市出身なの。大社町鵜峠(うど)という小さな町で生まれたんですよ。小・中学校はもう廃校になっているような場所でね。町にはこれといった娯楽もなくて、いつもひとり丘の上で人生を考えているだけだった。

 夏休みに海で泳いだり、石投げをしたりして遊んでいると、いつも30メートルくらい後ろから村に住む老人が私の様子を見てくれていた。自分の背中を誰かが見ていてくれるというだけで人は安心するんだと、子供心に思ったんですよ。

「もし私がシティボーイだったら『がん哲学外来』はできなかったかもしれないね」

――親じゃなくても、大人が必ず自分を見てくれているという安心感ですか。

樋野 そう。温かい他人がそっと心配してくれていたやすらぎ。これが人生なんだと思った──。「がん哲学外来」の原点かもしれないね。

 ここへ来る人は、人生に失望している人、誰にも話を聞いてもらえない人、冷たい親族に悩む人が多いんですよ。みんな「温かい他人」を求めているんです。

 だから、もし私がシティボーイだったら、「がん哲学外来」はできなかったかもしれないね(笑)。

――偶然のような必然が重なってつくられたということですか。

樋野 そうだね。まさに、「がん哲学外来」は、私にとっての「もしかすると、この時のため」だったと思いますね。幼い頃の思い出と、浪人時代から始めた読書、病理医としての経験が結びついて、こうしてひとつの物事になってくるんですから、人生、何がいいか悪いか、わからないですよ。それも、私の想像を超えて広がっているからね。

――今や140ヵ所ですものね。

樋野 最近は、中国やアメリカなど、海外の大学からも講演依頼があり、今や日本発信の活動になっているんですよ。末期がんの人たちの療養施設や「メディカル・カフェ」を点在させる「メディカル・ビレッジ」などの構想もあり、来年にはその学会も発足することが決まっているんです。

――ますます「がん哲学」が身近なものになるわけですね。今後が楽しみです。今日はありがとうございました。

 

写真=杉山秀樹/文藝春秋