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「一緒に闘ったメンバーが私の金メダル」

 東洋の魔女たちの絆は、50年近く経った今もまったく変わらない。東日本大震災のとき帰宅困難者になった私は、河西と共にホテルのロビーで一夜を明かした。携帯電話の電池が切れそうになり、電話を持たない河西に最も連絡したい人に電話することを勧めた。河西がプッシュしたのは、子供たちや親戚の家ではなく、宮本の自宅番号だった。

 宮本の自宅は宮城県沖の震源地に近い茨城県日立市にあるとはいえ、チームが解散して46年も経つ、かつてのチームメイトに真っ先に電話しようとしたのは驚きだった。残念ながらつながらなかったものの、河西の想いは宮本のもとに飛んでいるようだった。

深い絆で結ばれていた選手たち ©文藝春秋

 かつてその宮本がこんなことを語っていた。金メダルはどこに飾っているのかと尋ねたときである。

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「どっか簞笥の隅にでもあるんじゃない。別に金色のメダルがなくたって私の人生に困ることはないし。私には一緒に闘った5人のメンバーがいる。彼女たちが私の金メダルなの」

 実際は宮本の出身地である和歌山県が保存しているらしいが、彼女たちはもののメダルに関しては一向に執着心がないのだ。河西の考えも同じである。

「私はたまの取材などで、金メダルを見せてほしいといわれることが多いから手元においてあるけど、先生にはメダルより仲間をプレゼントしていただいたことに感謝したい」

 大阪から茨城まで現在住んでいるところはばらばらだが、それでも6人は、年に一度は何かしら理由をつけて顔を合わせる。

 会えば一気に昔話に花が咲く。笑って、笑って、解散の時間まで笑い続ける。箸が転んでもおかしい18歳に戻ってしまったかのようである。

 私も時折、その会に同席させてもらうことがあるが、彼女たちの笑顔を見ていると、かつて大松が雑誌のインタビューで語っていたこんな言葉が思い出されるのだ。

「苦しいことをすればするほど楽しい思い出が残る。選手にも、そういうことをするのが人間として価値があるものだ、だからスポーツをやるのは自分のためなのだ、という気持ちを植えつけているんです」