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男性監督と選手たちの恋愛は?

 東京五輪に向け、大松と魔女たちが懸命に練習に取り組んでいた頃、口さがない世間は大松と選手たちの恋愛関係を噂することがあった。

 90年代後半、大松の妻・美智代をインタビューする機会があり、その疑問をぶつけたことがあった。美智代は大笑いしながら語っていた。

「私のところにも、若い女性の中に男1人で心配ないのかというお節介なものから、誰それさんを可愛がり過ぎているというものまで、いっぱい届きましたよ。でも、主人も選手も一度も疑ったことはありませんでした。12人ですよ、12人相手に恋愛できますか。誰か1人にもし、そんな感情が生まれたら、チームワークは必ず乱れます。主人と選手の間が近かったというなら、それは生死を共にした戦友みたいな感情でしょうね。また、それくらいの信頼感がなかったら、金メダルなんて獲れませんよ」

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 美智代によると、大松は東京五輪が終わるとすぐ、選手らの婿探しに奔走していたという。恋愛結婚した半田以外は、大松が紹介した男性との結婚が決まった。

 しかし、最年長の河西の相手がなかなか見つからなかった。大松は会社に「五輪まで続けたら会社が責任を持って婿を探すといったはずだ」と直訴。しかし色よい返事がもらえなかったため、義憤に駆られた大松はその場で辞表を叩きつけた。

 翌年、池田勇人から佐藤栄作に首相が代わり、その祝賀パーティの席で、金メダルのご褒美に何か1つ欲しいものをプレゼントすると佐藤首相にいわれた、大松は、即座に「河西の婿を探して欲しい」と頼んだ。河西は佐藤栄作夫妻の紹介で、当時陸上自衛隊二尉の中村和夫とお見合いし、2カ月後に結婚した。

 美智代はさも残念そうに言う。

「主人は、河西さんのお婿さん探しをお願いしに行き、会社の不誠実な態度に怒ってその場で辞めてしまい、私物もすべて置いてきた。監督をしている間、選手1人ひとりのコンディションや練習メニューなどを書いたノートがダンボールに5~6箱くらいあったそうですが、それまで置いてきちゃった。もし手元にあったなら貴重な資料になっていたと思うんですけどね」

 そのノートが公になっていたら、大松が猛訓練をしたとはいえ、選手の意思を尊重し、仁慈に満ちた指導法が曲解されることなく、後世に伝わっていたかも知れない。

初の五輪で金メダルを獲得した日本女子バレー ©文藝春秋

 大松は日紡を退社した後、中国の周恩来首相のたっての願いで大陸に渡り女子バレーを普及。その活動がやがて実を結び、中国は日本を脅かすアジアのバレー王国になった。

 その後参議院議員を一期務めた後、ママさんバレーの指導に行った岡山県で、78年11月、57歳で逝去した。

 大松が残した芸術作品たちは、今も輝きを失っていない。それぞれが家庭を持ち、子供を育て、義父母を見送り、孫たちに囲まれる年代になっても、6人の絆は固く結ばれたままだ。