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「〈死〉は私にとっても、少しも怖くなくなった」脳梗塞で倒れ、生死を彷徨った小林信彦が見た“奇妙な夢”

『生還』より#1

2022/02/12
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昭和ヒトケタ生れの友人たちはもういない

 そのころ、生と死のあいだでさまよっていた、といちおう言えるのではないか。もう少しあと、次の病院にうつってから、ゆっくり考えてみたのだが、84歳といえば、友人はほとんど亡くなっているものだろうか。指を折るまでもなく、大島渚、大瀧詠一、野坂昭如(CM作家として忙しかった阿木由紀夫時代にあちらから近づいてきた)、植木等、谷啓、青島幸男、作家の山川方夫(まさお)、渥美清(渥美が山川になついていた、なんて誰も知るまい)、翻訳家の稲葉明雄、永井淳といった人々はことごとくこの世を去っている。気軽に電話をかけられる人はもういないといってよい。  

 私だけなにかの間違いで生きのびてしまったのだろうか。かつて、昭和ヒトケタ生れともてはやされた人々はもういないのだ。私だけがもてはやされなかったことへの辻褄(つじつま)合わせか。

 夢か現実にあったのか、わからないことなら、まだ記憶にある。病院がどこかでデパートのようなところにつながっていて、私はしめ出されている。また、病院の中に食堂のようなものがあって、きびしく管理している小母さんが、なにを思ったのか、私に親切にしてくれる。 

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野戦病院のようだった急性期病院

 いずれにせよ、M病院は急性期(きゅうせいき)病院なので、リハビリテーション(今度正確に知った言葉だが、身体障害者、長期療養者などを社会生活に復帰させるための指導・訓練をさす。略して〈リハビリ〉ということ多し)は別の病院でやらねばならず、次女は三つの候補から、家に近いH病院をえらんでくれた。彼女はM 病院を「野戦病院みたい」と言っていたが、私の体験もまさにその通りで、私が一時的に寝ていた小さな部屋にも、夜中に倒れたばかりの病人が搬送されて くることがあった。病人はたいてい怒っており(そうでなければ静かになっている)、家族はたいてい泣いていた。野戦病院というと悪口のようだが、私が生きのびたのはここでの処置がよかったためである。ただリハビリの広い訓練場はあり、リハビリ担当の人もいたが、それにさほど熱心でない、ということは言えたと思う。そちらを必要とする人は、専門の病院へ行って欲しいというのである。  

 ここで奇妙な夢を見ている。関西弁の女の子が私につきそっており、私の尻から排泄物をくじり出していた。それが気持よいというのが、体験のない私には意外であった。

 しかし、夢の中では、明らかに〈されている〉のであり、近くで「おれと逃げないか」という男の声がした。あたりで何人かの男女が交わり合っている気配だ。

 女は私に何か食べにいこうと言った。一般論だが、関西弁の女の子が涙また涙という苦労話をしながらも、こちらの方が味がいい、などと味にこだわるのが好ましかった。

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