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「〈死〉は私にとっても、少しも怖くなくなった」脳梗塞で倒れ、生死を彷徨った小林信彦が見た“奇妙な夢”

『生還』より#1

2022/02/12
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命を取り止めるまでの道のり

 翌朝は転院の日で、9時に介護タクシーがくるはずだった。私が車椅子で運ばれてゆく途中で、一組の女子の点呼を見た。いちばん後にいる大柄な女性が私を見るなり、舌を出してみせた。いわゆるアカンベーである。その女性は夢の中で私につきそっていた人にそっくり、いや、そのものであった。これはどういうことだろう、と私はうろたえたが、アカンベーはなんといおうと現実のことである。

 この病院で見たものの前半は夢の中、後半は現実だが、はて、これは何だろう。

 急性期病院、と書いた。ここは、とりあえず、命を取り止めるのが仕事である。  

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 結果だけをいえば、その目的は果されたといえる。しかし、そこまでの道のりは大変だったらしいことが娘のメモからうかがえる。  

 たとえば、血栓を溶かす薬は発症後4時間半以内に投与されないと逆効果になる恐れがあるらしいのだが、私に投与されたのは5時間ほど経ってからで、医師が判断に悩むタイミングであった。どうやら効果があったらしい、と医師 が言ったのは夜中の1時半で、東棟3階SCU(脳卒中センター)に寝かされ た私は、動かない左手、左足を吊るし上げられていた。  

医師の判断の早さで生かされた

 翌日の午前中、家族が面会にきた時点で、私はまだ自分の身になにが起こったのかわかっていない。呂律はまわらず、口から出てくるのは単語だけだった。それは「タクシーを呼んでくれ。自分も家に帰る」というもので、それも発声のリハビリを行う人がきいて判断できたのだ。ほとんど夢も見ていなかったと思われるが、そこら辺はわからない。薬の投与は遅れたが、それでも救急車を呼ぶかどうかについて近所の医師にあれこれ相談していたことを考えれば、スムースに行っていた方であろう。なにより、居合わせた医師の判断が早かったのが私が〈生きる〉側に飛び込めたもとだろうと次女は記している。

写真はイメージです ©iStock.com

 私はまったくわからなかった。ひょっとしたら脳梗塞という考えもなく眠りつづけ、見舞い客の声には機械的に応じていた。医師は、年齢に比して脳の萎縮(いしゅく)が進んでいると言い、原因は運動不足と断言した。これは、あとで聞いた私にも理解できる説明だった。

 私はもう一つだけ夢を覚えている。それは青山二丁目にあった母の生家で、祖父の好きな会合を待っている時だった。その夜は、肉体派といわれる日本の若い女優がくるとかで、広めの家の中は妙に華(はな)やいでいた。これは祖父の家とちがうな、と一瞬思ったのは庭木を見たときだ。あとで気がつくが、庭木だけが私の部屋から見えるM病院のものであった。