監督が“半狂乱”の選手たちにかけた言葉
葛和は半狂乱になっている選手たちを見ながら顔をゆがませ、声をしぼり出した。
「今のうちに泣きたいだけ泣いておけ。そのうち、泣きたくとも泣けないときが来る」
その翌日、消化試合になってしまった韓国戦の直前、彼女たちは体育館に入る恐怖と、それでもコートに立たなければならない使命感、会場を埋めた観客に最後まで闘う姿をみせたいという責任感が複雑にからみ合い、コントロールできない感情がしゃくりあげながら笑うという奇怪な行動を取らせていたのだ。
このときのメンバーで五輪経験者は、当時24歳の大懸1人。全日本はスタートからボタンのかけ違いがはじまっていた。
葛和ジャパンがスタートしたのは97年春。84年のロサンゼルス五輪の銅メダルを最後に、女子バレーの凋落が始まっていた。96年のアトランタ五輪では予選リーグで敗退し、同率9位と最下位に沈んだ。その建て直しの切り札として全日本の監督に任命されたのが、当時NEC監督の葛和だった。30歳でNECの監督に就任し、実業団やVリーグで何度もチームを優勝に導いた手腕と経験、そして当時42歳という若さと情熱を見込まれての就任だった。
90年代から世界のバレーの勢力図はさらに変わりつつあった。ブラジルやキューバ、ペルー、米国などが台頭し、それまでの旧共産圏や日本などが得意としていたコンビなどの組織バレーが、高さやパワーの前では通用しなくなってしまっていたのだ。イタリアはプロ化に成功し、各国のエース級が顔を揃えたことから、国内選手のレベルも一挙に上がった。
日本バレーボール協会もそんな流れに乗り遅れまいと、アトランタ五輪後、24歳以下で大型の選手をかき集めて葛和のもとに集合させた。その中にはVリーグさえ経験していない選手もいた。4年かけて選手を育て、世界の強豪の仲間入りをするというのが、協会から葛和に与えられたミッションだった。
オリンピック経験者は、バルセロナ、アトランタに出場した多治見麻子と20歳でアトランタに初出場した大懸だけである。当時24歳とチーム最年長だった多治見は主将に抜擢されたものの、集まったメンバーの顔ぶれに釈然としなかった。